トゥルキスタン夜話

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2006.02.19 Sunday

語学は愛である。

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    国を愛する、ということはなんなのだろう、とよく考える。
    それも自分の祖国ではない国を。

    知り合いでヒュリエットという新聞の東京支局長だった人はよく「日本と接するには3段階ある。第一段階は愛と尊敬の蜜月時代。第二段階はアラばかりみえる憎悪の時代。第三段階は、ヤミクモに愛するでもなく憎むでもなく日本の等身大の姿を受け入れる時代」と、言う。

    日本人がトルコに関わるときも、結構、これと同様のルートを通るときが多いと思う。
    第一段階でとどまり続けることができる超人的な人(会社の休みを利用して年に1回トルコを旅している、というような人に多し)、とか、永遠の第二段階の人(適応不能を起こした駐在員とその妻とか。トルコでひどい眼にあったバックパッカーなどいろいろ。)もいる。

    トルコに関わって結構長く、さらに否応なしにこれからも関わることになるだろう私は、おそらく第三段階、に居るとおもわれるのだが…実は、受け入れる、というのは定義が難しい。私は長いことこの国に暮らしたのだが、私は自分の生活を楽しんだだけで、この国の「何か」を受け入れた、とは到底思えないからだ。私は、私の舞台装置としてのトルコを結構好きだったことは確かだが、主役はあくまで「自分」でしかないわけで、その舞台装置と関わろうとはあまりしなかった。彼らが何を感じ、何に重きを置き、どういう生活をしているかは分かっていたつもりだが、そのことにたいした興味はもてなかった。多分自分の価値観と近しいものをこの国の人間に感じなかった、のだと思う。

    経済学者のシュンペーターは「全てを理解するとは、全てを赦すことである」と言ったそうだ。美しい言葉だが、これは真理なのだろうか?私は、トルコの全てなど、赦してはいない。まず、あの国の人間に気を許していないし、これからも許さないと思う(気を許さずに仲良くするというのは、実は可能だ。そしてそれは素晴らしい、非の打ち所のない友情というものにみえなくもない)
     シュンペーターの言葉を基盤にしてしまうと、赦せないということは理解が生半可であるということになる。つまり「バカは不寛容」ということだ。そうすると、私はすなわち不寛容なバカに他ならない…。

    この不寛容なバカにはどこをとっても「トルコへの愛」はないのだろうか?

    それに対する私の答えが、トルコ語、である。語学こそが愛なのだ。
    「全てを赦す」ことができない私にとって、愛とは接吻でも抱擁でもなく、その国の人間と時を共に一緒にすごすことでもない。トルコという国に存在した、そのこと自体は必要に迫られてのことだから、「愛」のうちには入らない。それは緊縛された女が猥褻である(この世で一番猥褻なものは縛られて自由を奪われた女体である-サルトル-妙に引用ばかりしてるな…)、というような意味でトルコ人にとってはそそる事実かもしれないが、私からすれば、そんなことを愛ととられてはかえって困る。

    私にとっては、自発的に時間と金とを割いたトルコ語の勉強そのものが唯一の愛情表現なのだ。私の単語量、私の知識、私の翻訳と読書、それが私の愛である。言葉が愛だ、と言い切るだけあって、私は言葉の世界で充足しているから、世界のどこにいてももはやトルコが懐かしいなんて感じない。トルコ語の本さえ開けば、私は時空を飛び越えることができる。語学と私は相思相愛なのだ。私が払った努力に見合う楽しみをトルコ語は十分に私に与えてくれたから、私はこの言語とこの国に感謝と愛情を感じるのである。

    と、いうわけで、冷えた心を持つ私の唯一の愛情の証である、トルコ語についてのブログです。

    17:40 | トルコ語 | - | trackbacks(0) | - | - |

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