トゥルキスタン夜話

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2006.02.21 Tuesday

トルコ語と日本語は似ているのだろうか?

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    日本人はよく「トルコ語は日本語と似ている」と言うが、それは実はトルコ人も同じだ。
    あまり日本語を知らないトルコ人は必ず「日本語とトルコ語の類似性に感激する」という道を通っている、と思ったほうがいい。
    私自身勿論、最初の頃は「良い=iyi」「斜視=sasi」「耄碌=moruk」(全て意味と発音まで同じ)などという「ガセビア」を覚えては驚いていたクチなのであまりひとのことを馬鹿にできないのだが。しかも、いまだに「玉とtopって似てるな・・・」とかふと考えてしまうのだけど。

    トルコでは言語学など専門学部の教授でさえ、日本語の「来る」という動詞を言うだけで、最初のkしか一致していなくてもすぐに「それはgelmek(kelmak)と同源だ!」などと飛びついたりする。彼らはトルコ系言語間で単語を比べることになれており、それは発音と意味が一致すればほぼ間違いなく同源だったりするので、日本語にもついその癖を発揮してしまうのだろう。(と、好意的にとっておく。てか、だいたいトルコ人は万事ノリがいいので、すぐにひっかかってくれてるだけなのかも。)
    大学教授でこういう調子なわけだから、ましてや門外漢の人の「トルコ語≒日本語」説は論破不可能に強固である。
    しかも日本好き、を自認する、我々のお得意様のような人に限って、「いわおのごとき」この信念を抱いていることがおおくて厄介なのだ。
    正直、これをムキになって覆すのも大人げないとは思うのだが、残念ながら、もはや私は単純な単語比較できゃっきゃとはしゃぐのが許せない身体になってしまったらしい。
    ついつい「あー、だから斜視とか耄碌は中国語だし!morukは元はアルメニア語ぢゃないですか?」などと野暮な反論してしまう。

    トルコ人だけでなく、日本人もなかなかのものだ。
    なんといってもこういう「寝言」を本にしてしまう人たちが結構居るからだ。
    今は亡き泰流社の一連の本もアレだが、昔の某大使夫人が書いたとかゆー本など、本当に「とんでも」の白眉だった。
    たとえば、彼女はトルコ(ウズベキ)語の「kohne(古い)」と日本語の「古風なkohuuna」を平気で比較して「同じ!」と言い切ってしまう。
    ちなみにkohneという単語はぺルシャ語からの借用語で、日本語の古風は中国語からの借用語に日本語の「な」という接尾語がついたものであろう。この二つの単語を似てるとか同源とかいうのは、ペルシャ語と中国語はちょっと似てる・・・と言っているのと全く同じではないのか?
    そのほかにも「重大な(中国語)≒ciddi(アラビア語)」「同志(中国語)≒das(arkadasとかvatandasのdas)」「阿呆≒ahmak(アラビア語)」「はっきり≒hakli(アラビア語+トルコ語。てか意味が違いすぎる。)など、豊富な例が満載だ。
    こういうことをあたかも自分がノーベル賞級の発見をしたかのような無邪気なフロンティア精神でもって、渾身の努力で本にしてしまうのだ。私が大使夫人でありながらこんな本を間違っても出版してしまったとしたら・・・縄文村にでも住み着いてマタギのような格好をし「あたくし、恥かしうございます!」と泣きながら竪穴式住居に引きこもって余生を送ることだろう。

    他人にたいして不必要に辛口になってしまったので、自分もひとつボロを出しておこうと思う。
    私も実はトルコ語と日本語はある側面が似ている、と思っている。
    何が、というと、語彙の分布様態が、である。
    たとえば、おとうさん、おかあさん、あかちゃん、おねえさん、などという個々の単語はあっても、「家族」という単語は中国語からの借用語である。トルコ人はこうした縁戚関係を示す語彙が欧米の言語に比べて豊富なのを論文などでよく誇っているが(そしてそれはおそらく事実だが)、「家族aile」とか「親戚akraba」という概念的な言葉は実はアラビア語起源なのである。
    日本語には、そら、かみなり、いなずま、くも、つき、ひ、などときて、「気象」という単語がなく、それもトルコと同じ。
    はる、なつ、あき、ふゆ、はあって、「季節」はないのも。(トルコ語の春の古語ってなんだっけ?)
    すなわち自国語の語彙が具象語どまりで、高度な抽象概念を表す言葉は外国語起源の借用語に頼っているのだ。

    日本人はこの現象をして大抵、「日本語はいまだ未発達状態にある段階で大量の漢語の流入にさらされたせいで、自国語が具象語から抽象語へと発達するチャンスを逃してしまった。」という風に捉えていると思う。だが、トルコ人は勿論そんなことは考えていない(ソコが大違い)。彼らは自国語の未熟さを認めるということをするわけがない。
    だから、この話は多分トルコ人が居るところでは軽くタブーだ。

    私がトルコでやりたかった、論文のテーマにしたかったのは実はこのことだったのだが、とっくの昔に諦めてしまった。
    彼らはこの考えを歓迎しないことは眼にみえているし、受け入れるにしてもどーせ論点を不愉快そうにずらずらしてくれることだろうから(注1)
    (言語学をやってたりする人間のほうがむしろマズイ。)
    別にトルコに限らないが、その国のことを研究する場合、その国を喜ばせる方向で研究を行ったほうが、うまくいくし、摩擦が少ないということは常識なのだ。
    そして人は内なる軋轢を抱えた犬となり祖国に帰ってちょっと吼えたりする。わん。

    注1:もし、興味のある人はギュナイ・カラアーチの論文でも読んでみると雰囲気がつかめるかも。

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