トゥルキスタン夜話

<< June 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

<< 文学のなかのトルコ人・その2 | TOP | カ『ズ』・キョイのカイマカムに関する都市伝説 >>

2006.06.24 Saturday

さようなら!ザー「テ」・ムフテレム(zat-i muhterem)

0
    ブログやHPで書いてあることというのは、基本的に間違いだらけだ、というのは誰もが内心思っていることだと思う。
    ブログにもいろいろあって、「俺語り」(例:「OLチョット贅沢自慢・ランチ2980円」「アマン・リゾーツに泊まったぜ旅日記」「嬉し恥ずかし英語練習日記」のようなもの)もあれば、「ニュートラル情報開示」(例:「アラビア語新聞訳してみます」「お得な金券ショップ利用法教えます」等)までいろいろあるが、ド素人の単眼的な見聞録など、所詮タカが知れている。

    私自身、「この人の書くことはいつも正確だ」と思えるブログを殆ど知らない。
    その人の考え方に共感できる、できない、とかそういう問題ではなく、情報として正しいか、正しくないか、という切り口で見て間違っているわけなので、これは主観ではなく客観的な判断だと思う。
    要は、ブログというのは、初歩的な勘違いとか、自分だったら赤面するような勉強不足とか、本人以外には何が面白いのか意味不明の事実の誇張とかを「味わう」のが正式な楽しみ方なのかもしれない。
    絵画の例えで言うならデュビュッフェDubuffet の提唱した、アール・ブリュットl'art brut(精神異常者や子供などが描く絵画)に近い世界である。
    ま、タダで情報を仕入れようというのだから、あっていれば儲けもの、間違っていて当然、くらいの覚悟で読まねばならないのだろう。(自己弁護…かも。)

    ところで、では、タダではない「本」というものには間違いはないのか?というとそんなことは全くない。
    値段の価値が見出せない本、というのは山ほどあるが、百歩譲ってそれを除外しても「間違っている情報が紛れ込んでいる」本というのは多いのである。
    金を払って「誤情報を買う」とは、こはいかに?
    それを考えれば、タダであるブログは、少なくとも金銭的な痛手は負わない分「お得」であるといえる。(自己弁護…かも。)

    しかし、ここにもまた落とし穴があり、作者がいかに間違えていようが、読者が作者以上に馬鹿で無知であれば、その本の間違いなどというものは見つかりようがない。
    そして作者の知識量が本を書いた時点でストップするのに対し、我々読者というのはどんどん「お利口」になっていく。
    すると、昔読んだ本の作者がいかに馬鹿で無知か、というのを暴く「心眼」が備わってしまう。

    私は以前、甲斐大策という御仁にとてもとても憧れていた。
    私の中央アジアへの偏愛も元はといえば、彼に植え付けられたものだ。

    ところがところが!
    今読んでみると…存外に間違いが多い。
    いや、間違いが多いだけなら、まだ許せるが、あきらかに「知ったかぶり」が多いのである!
    自分の本を読んでもらおうと思ったら、できる限り、思わせぶりに書いたり、知ったかぶったりすることは必要だろう。
    だから、子供の私に異郷の夢をみさせてくれたことには感謝する。

    そして、10年の時を経て(!)、私には、この御仁のペルシャ語レベルはあまり高くないし、それゆえ必要最低限の情報すらも採取できていなかったことが、見えるようになってしまったのである。(ひょっとしてペルシャ語書けないのか?)
    さらにはお得意の知ったかぶりがこうじて(?)、トルコ語領域にまで踏み込んでいることがあるが、それがまた見事なまでに・・・外している。
    日本にひとりしか研究者が居ない超マイナー言語じゃあるまいし、トルコ語はド素人が知ったかぶっていい加減なこと言えば、「5000人くらい」から「ばーか!」と後ろ指さされてるだろうメジャーな言葉だ。
    そういう状況で、いくら「売れてない・売れもしない」からと言って自分の本で平気で「知ったかぶりっ子」するのは一体なぜ?何故なのだ?バレないと信じて調子に乗ってるか、耄碌しているかどっちかだろうが、いずれにしても、もはや悲しいことに、私にとって彼の本は「マークス寿子・英国貴族になった私」と同じカテゴリーに入れられ、ブックオフで105円でも買わない、ものになってしまった。(ブログだったら読んで「あげて」もいい。ここにブログの光明があると思う・・・自己弁護かも)

    厳しいことを言ってしまったものの、正直、尊敬していた人物の馬脚を見てしまい、単なる「男のロマン野郎」だったのか・・・といまさら事実を知らされることは結構切ない。私は世の中に失望し続けた挙句、「憧れ」などという余分な感情を持たずに、命カラガラ虫の息で生きている人間であるからにして、数少ない憧れの対象が失墜することは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸が切れるがごとき打撃なのだ。だがもはやこの「心眼」を閉じることはできない。

    だいたい、だ。餃子ロードという本を読んで思ったのだが、「あまり餃子は好きでない」のに餃子の本を書くなんて、動機からして腐っている。「あまりラーメンは好きでない奴」が書いた「ラーメン本」を誰が読みたいと思うか?ろくに知識がない(=頭が悪いor勉強不足)ならば、「愛(妄念や偏愛を含む)」だけで攻めるしかないというのに「あまり好きではない」だと?じゃ、本など書いて売りつけるな!ブログにでも垂れ流してろ、って話ではないか!得意分野の中央アジアネタだからって、自分の感性で味付けすれば人は喜ぶという特権的図式が通用すると思ってるよーな所がもはや勘違い。これじゃ、可愛くもない「渡辺満里奈.」とか「はな」とか「緒川たまき」(=感性とやらでメシ食う中年女性たち。でも超可愛いから許す)だ。てか、「男の中の男(ハードボイルド)」の世界と甘ったるくて下らないオトメ世界ってどうしてこうも酷似しているのだろう。この世の7不思議のひとつだとおもう。

    ところで、世の中で活躍する人たちには、「憧れ」や「リスペクト」の糸を太く持ち、四方八方にはりめぐらせ、あたかも操り人形の如く「踊っている」人々が多い。良心的に言えば「多方面から良い影響を受けて」、悪意を持って言えばあちこちから「軽くパクって」いる。そんなに他人を熱烈に尊敬できたり、憧れが昂じて模倣を始めたり、ということ自体私には驚きなのだが。日本やトルコでつくづく考えさせられるのは、メディアの表舞台に上手く乗るコツの一つは、バランスのとれた「操り人形」となることだ。あまり、偏りがあっては、すぐにパクリとバレてしまうので、独創的な踊りは踊れない。
    そして私は糸なき人形で、この甲斐氏の影響力も踊りの原動力となるほどのものではなかったのだから、この微かな蜘蛛の糸が切れてくれたことは、むしろ、善きこと、清きこと、かもしれない・・・。その証拠に怒りを吐き出したら、すっきりした。(長々とお付き合いいただきどーも。これはブログなので、まさに「アール・ブリュット」な世界をお楽しみいただいたことと存じます。)

    さて、本題に入ると(遅い!)、この甲斐氏にはある「耳癖」があるらしい。
    軽い「i」の音を、日本語に移す時、いつも「e」の音にするのである。
    (カタカナを一生懸命文中に使うところがまたいじらしいのだが。雰囲気作りでしょうか?ここにも今読むと青い乙女な感性を感じる・・・。)

    ダライ・ゼンダン→dara-i zindan (私ならダラ・イ・『ズィ』ンダン、もしくは『ジ』ンダンと書く)
    ヤフシェミシズ→yaxshimisiz    (私ならヤフ『シ』ミスィズ、と書く)

    など。私はトルコ語「I(ILIK)」の音と中国語「e(餓)」の音にとても興味を持っているので、この彼の「耳癖」はちと気になる。

    かつての「神様」は、観察される客体(サンプル)として役に立ってくれそうというわけか。。。ありがたや。

    この記事のトラックバックURL

    http://blog.turkistan.moo.jp/trackback/390664

    トラックバック

    ▲top