トゥルキスタン夜話

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2006.07.30 Sunday

日本の大使がトルコで切腹したそうな。

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    またトルコのお友達(・・・)が記事を送ってくれたので、紹介します。

    http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/staff/shoin/g_7.html←この方のおじい様の話だそう。


    【千葉シンイチ・死因ハラキリ】

    千葉シンイチは、日本の在ポルトガル大使だった。第二次世界大戦末期「中立地帯」であったトルコに避難、1945年7月26日アンカラの粗末な家で、妻を殺害、それから自らも切腹自殺を遂げた。広島に原爆が投下される11日前のことだった。アスリー墓地に埋葬された千葉氏の遺体は同じく外交官の息子の一夫氏が日本に運んだ。孫の千葉明も外交官である・・・

    【ケネディ通り 1945年7月26日】
    千葉シンイチはだ大日本帝国駐ポルトガル大使だった。第二次世界大戦中「中立地帯」のトルコへと移り住む。ポツダム宣言で日本が戦争の非を問われるや、妻のミヨコを殺し、その後自らも切腹自殺した。その息子と孫も外交官である千葉家は武士の家系である。

     去年の犠牲祭の初日のことである。1月のことで一面に大雪で覆われていた。アンカラのケネディ通りで一人の日本人が道路に瓶の水をまいているのを、誰か目撃したかどうかは分からない。目撃者が何を考えたのか知ることもできない。もしかしたらただ「この天気に、この日本人は一体何をしているんだろう?日本人て変わっているな。」と思ったかもしれない。しかし、47歳のこの日本人が誰であるか、なぜその場所で道路に水を撒いたのか私は知っていた。

    1945年・・・パンは、「配給証明書」、すなわちキャラコに縫い付けられた身分証明書に押されたスタンプによってのみ買うことができた。人々はイズミル・エスレフパシャ郵便局長ヒルミ・アジャルの家のラジオでニュース聞くために集まっていた。この時代、喫茶店以外にこの家にしかラジオはなかったのだった。窓はカーテンとは別に真っ黒な紙によってしっかりとふさがれていた。空襲を警戒する意味で照明規制が敷かれ、家の外に光が漏れることはなかった。
    カデイフェカレとギョズテペからは、二つの大きなサーチライトが伸び、外国の戦闘機を照らし出そうと夜の天空を探しまわっていた。

    ニュースはヒットラー、チャーチル、スターリン、ルーズベルト、などという名前を並べ、連合国及び枢軸国の軍隊の一進一退を伝えている。このニュースで最もよく使われるのは「戦線」という単語だ。このニュース好きな客人たちは「ドイツ派」と「イギリス派」のどちらかに分かれて、ニュースのあとはあたかも現代のサッカーの試合の後のように、激論を飛ばしていたのを、私は記憶している。
    あの時、ニュースを見守っていた人々のなかに日本人在ポルトガル大使千葉シンイチ氏と妻のミヨコさんがいたことを、私が知ることとなったのは、何年も経ってからだ。千葉夫妻は彼らが国際政治の隠れ家とみなした「中立国家」トルコの首都アンカラで、簡素な平屋のアジトに隠れて「戦線」のニュースを聞いていたらしい。彼らの耳はこの半年間、BBCもしくはベルリンのラジオ放送に釘付けであり、それを聞いて興奮するというよりは常に不安に苛まされていた。



    日本の首相としては16年ぶりに、今年1月に日本国首相小泉純一郎がトルコを訪問したとき、我々はアンカラである驚くべき話を聞いた。 日本外務省国際報道官・千葉明氏が限られた報道関係者が集まったある夕食会の席で、小泉首相訪土の舞台裏を説明したのだ。その時、「日本軍(自衛隊)」訪問のために首相のイラク訪問の予定があったが、報道官は「まだ確定ではありません。」と答えた。私は、「警備上の問題から隠しているのでしょう。でも、行くに決まってます。」と言った。我々は賭けをした。勝ったのは千葉報道官だった。彼は東京から知らせをよこし、賭けに勝ったごほうびに彼の愛する「メフテル・マーチ(軍楽隊マーチ)」が入ったCDが欲しいと言ってきた。我々はもちろんそれを送った!
    しかし、公的記者会見後の彼がしてくれた物語をきいた私は、首相のイラク訪問問題など、実はどうでもよくなってしまっていたのだ。
     千葉氏と私は隣同士で座ったため、偶然二人きりで会話することになった。トルコに来たのは初めてだという千葉氏はその後悲しげな声で「しかし」と付け加えた。「アンカラは私にとって特別な意味を持つ場所なのです。」

    そのあと、彼の祖父のアンカラでの6ヶ月間について彼は話してくれた。
    それは非常に悲劇的な物語で、私はそのときにもジュムフリイェット新聞に短い記事を書いた。「私の祖父、千葉シンイチは第二次世界大戦でポルトガル大使でした・・・」という文章で始まる物語はこう続く。「戦争が連合国に有利な展開になってきたため、祖父は中立国のトルコを政治的な隠れ家とみなしたようです。彼はアンカラで今日ケネディ通りといわれているところにある、質素なバラックのごとき家に祖母のミヨコと共に移り住みます。当時リスボンから、もしくはアンカラから飛行機で東京へは戻ることができませんでした。ヨーロッパのさまざまな国からも多くの人々が、信頼にたる中立国としてのトルコに疎開してきていたいました。祖父母も彼らと同様トルコにやっとのことでたどり着き、アンカラに住むのが最善だと思ったのでしょう。当時アンカラには日本大使館はありませんでした」
     私はこの物語の主人公たちの写真を千葉氏にから提供していただいた。特別に今日公開しようと思う。・・・
    ☆☆☆(写真)

     最初に当時の状況について日を追って整理してみよう。
    1945年2月の4日から11日にかけて、黒海沿岸のクリミア共和国の首都アクメスジットから79km南に位置するヤルタでアメリカ代表フランクリン・D・ルーズベルト、イギリス代表ウィストン・チャーチルとソ連代表ヨセフ・スターリンが会見した。
     ルーズベルトとスターリンが戦後世界の政治的な勢力分割決定を行っていたとき、チャーチルはもはや自分には傍観者の役割しか振り当てられていないことに気づき、失望していた。
     2月23日、中立国であったトルコは敗北が決定的となったドイツと日本に対して宣戦布告する。その日の後、アンカラの千葉夫妻がどうなったかは分からない。
     5月7日ヒットラーのドイツは連合国に対して白旗を掲げる。
     7月17日連合国はドイツと日本が承認するべき降伏文書を基本草案を練るためベルリンから30キロ離れたポツダムで会議を開く。
     会議にはアメリカ代表として、フランクリン・ルーズベルトが参加していたが、彼が死亡したため、副大統領ハリー・S・トルーマンが後を引きついた。イギリスからは選挙にまけた保守派のチャーチルの代わりに、労働者党代表のクレメント・アトリーが出席していた。ドイツと日本は「戦争犯罪」を裁く軍事裁判に引き出されるだろうという内容を含む基本決定がラジオで世界に伝えられる。私の父の「ニュース好き」な隣人たちと同じく千葉夫妻やヨズガットのキャンプで「管理下におかれた」ドイツ市民も、ポツダムからのニュースを、雑音の多い短波ラジオで聞いていた。

     千葉シンイチは単なる一般の大使とは違っていた。彼は何千年も続く(ママ)「千葉」という名を背負った武士階級の出だ。ポツダムからのニュースに、誰よりも鋭く反応し、不安を深めたのが彼だった。なぜなら彼は現在の「政治的亡命者」という立場から、「戦争捕虜」になるかも知れず、さらには「戦争犯罪者」の宣告をも受けかねないのだった!しかし、妻のミヨコを後に残すこともできかねた。彼は7月26日自分の決意を妻に打ち明ける。伝統的な日本女性であったミヨコは夫に反対することはできなかった。家庭用パン切り包丁(ママ)で妻を殺害した千葉氏はそれから自分の腹を切る「ハラキリ」という行為に及んだ。夫婦はアンカラのジェベジにあるアスリー墓地の壁際の場所に宗教儀式を伴わずに埋葬された。
     8月2日千葉夫妻の自決の一週間後、ポツダム会議は「軍事裁判」に関する基本的合意に達して終了した。
     アメリカは8月6日日本の広島市に最初の原子爆弾を投下する。これにより何千人(ママ)もの人が死に、何万人(ママ)もの人が負傷することになる。
     8月6日、海軍で任務についていた千葉シンイチの息子一夫は、ちょうどその朝、沖合いの戦艦に居て、広島の最初の原子爆弾の炸裂ときのこ雲をその眼で見た。「父カズオは祖父母が11日前にアンカラで死亡したことを知らないまま、地球の歴史上最も悲惨な事件の証人となったのです。」
     8月9日、二つ目の原子爆弾が長崎に落とされ市民を虐殺した。8月10日、日本はスイスの仲介で、アメリカに申請し「日本の天皇の権利と神聖性を犯さないという条件付で」降伏する余地があることを表明した。この提案を受け入れることを決めたのは、アメリカ全体ではなく、すでに戦後政策を考えていたダグラス・マッカーサーその人だった。
     9月2日東京湾のミズリー号で鈴木首相は、降伏文書に調印し、日本の支配権をマッカーサーに譲り渡した。
     父の千葉カズオは、日本が受けた苦難や屈辱にもかかわらず、マッカーサー元帥が日本の皇室に敬意を評したことを評価していた。
     彼は、もし、マッカーサーが「太陽の息子」である天皇を見下すようなことがあれば、一人のサムライの息子として、周囲のアメリカ人を殺そうと決意していたのだった。
     その後、東京で大学を出て外務省に一夫は外務省に入省する。1959年、テヘランで日本大使館勤務中、息子明が誕生。1979年「中東・北アフリカ局長」の時、仕事でアンカラへ行くことになった。祖父母の骨をジェベジ・アスリー墓地から集め、彼らの苗字をそこからとった「千葉県」の墓に運んだ。一夫は1988年から1991年までイギリス大使職についた後、天皇アキヒトの広報官となる。天皇皇后がエリザベス女王の賓客として1988年ロンドンを公式訪問した際、彼らは第二次世界大戦で日本の捕虜となったイギリス人たちの反日感情にさらされることになる。デモ隊は、日本軍キャンプでタイービルマ鉄道「クワイ橋」の建設のため労働に従事した捕虜が口笛を伴奏に歌ったという「ボギー大佐」を演奏して、天皇の訪問を非難した。一人のイギリス人記者の「デモをどう思ったか?」という質問に対して、広報官である千葉一夫大使は「日本のメディアは近頃ワールドカップに夢中ですから」と答えた。すなわち彼はデモを見てみぬふりをすることを選んだのだった。千葉一夫は2004年9月24日に死んだ。

     最初は「中立国」であり、終戦ぎりぎりのところで参戦したトルコはアメリカに表彰される。1946年4月5日、日本で降伏文書調印の場となったあのミズリー号は、今度はイスタンブールに入港する。戦艦はナスヒーとアフメット・エルテギュン兄弟の父であるM・ミュニル・エルテギュン駐ワシントン大使の遺体も運んできていた。郵便局はその日のために記念切手も発行した。1952年6月朝鮮戦争が始まると、在東京アメリカ大使館が開館され、一年後日本はアメリカに外交官を送るようになった。

     今年の一月に雪の降りしきるアンカラの路地に水を撒いた日本人とは、千葉明である。瓶に入っていたのも水ではなく「サキという米で作った日本のラク(ママ)」であるそうだ。千葉はこの話をこう締めくくった「祖父はアンカラでサムライの伝統(!)をその妻とともに実現しました。だからこそ、私は彼らが住んだ場所を訪問し、彼らに敬意を評してその家があった路地に酒を注いだのです。アンカラは他の日本人と違い、私にとっては特別な意味を持つ場所です。」



    私が気になるのは、公館長が逃げたはいいがその他の職員どーなったんだろう、ということのみ。(近視眼的?)

    結局のところ、どうして千葉シンイチ氏が死んだかも謎だし。案外、アンカラに何もなくてリスボンの優雅な生活を思い出し、鬱になったとかじゃないのか?(今でこそ、そこそこ素敵タウンだけど、当時のアンカラって酷かったらしい。)

    話のスジ的には三島由紀夫の「憂国」(226に参加しそこねた新婚少尉のハラキリ事件)にそっくりだ。金閣寺やら有田八郎やらを敵に回してかんかんに怒らせた三島先生なら、遺族が読んだら赤面して後追いしたくなるほど、こっ恥ずかしい話に仕立ててくれただろうから、ちょっと読んで見たかった。(絶対、妙に耽美的な濡れ場があるに決まってる。死とエロスの究極の融合とか言って。んで、股間から『百合の花が焦げる匂い』がしたりする最後の性交の後、刃で表皮が切り裂かれ、脂肪層がはじけ、ついには腸とかがはみ出てくる様子がねちねちと描写されるはず。自分の祖父母のそんな話を読まされるほうは、エロとグロの爆弾投げつけられてお気の毒、というわけ。他人ならいいけど。あと、思い出したが、ゴルゴ13の作者・さいとうたかをが漫画化した『日本沈没』でもカタストロフィーの前に美女がいきなり全裸になるのだ。私には必然性が全く読めなった。血中男性ホルモン濃度が高そうな人って、惨劇の前の法悦、というのがお好みなのか?)

    ★補足記事
    【サムライとはなんぞや?】
    「大名」は日本の伝統で「一族」の「長」という地位にあり「封建領主」という意味合いの支配階級である。サムライとは大名に仕える戦士たちだ。17世紀以前、サムライはその奉仕の対価を米の俸給としてもらい、二つの刀を腰に差すことを許された人々のことであった。鉄砲が出現し、城が建設されるようになると、彼らは「大名」の「宮殿」に仕えるようになった。そして天皇が権力を持つようになると、その重要な支持層となる。侍は「武士道−戦士の道」と言う名の「誇り高き規律」に何が何でも従う必要があった。名誉を失うようなことがあれば、腹を刀で横に切り裂く「ハラキリ」で自殺するという方法がとられた。
     千葉氏は日本のサムライの中で最も有名で、最も影響力があり、最も強い武士の家柄であった。1601年に分家となったが、その紋章は「三日月とその先に点」というものだった。三日月は宇宙を、点は北極星の象徴である。千葉家の信ずるところによれば、北極星は常に動かず、天空をその周りを回る。よく知られているようにトルコの国旗に描かれた星も、北極星である「金星(ママ)」である。
    不思議な偶然により、千葉シンイチは何百年もの後、「千葉一族」の家紋である「新月と星」の国旗を持つ国で、自分とその妻の人生を絶つこととなったのだった。



    確かに千葉家の家紋はトルコ国旗にそっくりである。→参照

    しかし、そんなことより、北極星=金星というトンデモ発言のほうに、注目してほしい。
    英語や日本語で書かれた文章でも、この二つを混同している場合、書き手はトルコ人の可能性が高い。
    国民的錯誤、って奴だ。(日本人が『ニュースという単語はN(北)E(東)W(西)S(南) からきている』とか『富士山麓の樹海の中では方位磁石が効かない』というのを信じてたりするよーなもの?)
     トルコでは一般人が異常なほど科学に弱かったりするのだが、むしろそのほうが良きイスラム教徒であるようなイメージもある。
     ISAMのような宗教色の強い図書館に行くと進化論否定本とか科学否定本みたいなのがたくさん置いてあるし。

    しかし、トルコレベルの国に赴任する大使館職員で、こんな「特権階級」的な外交官など余り居ないので、ちょっとびっくりな話だ。
    トルコ人は実は「貴族ネタ」に激弱いから(なぜならトルコ共和国は基本的に反オスマン帝国国家であるからにして、皆、成り上がりなのだ。大金持ちでも本当に家系がスゴイ、ということが滅多に無い。ある意味アメリカ的。)、首相についてたまたま出張してきたような人(トルコなんかに大使以外の役職で赴任しない系の超エリート)が「世が世なら俺は殿様だい!」とトルコ人にスゴミをきかせて頑張ってくれるのはいいことなのかもしれない。
    多少鼻につくから日本人である我々に対してはスゴまなくて結構ですが(笑)



    以下原文
    Şinçi Çiba... Ölüm nedeni "harakiri"...
    Şinçi Çiba, Japonya'nın Portekiz Büyükelçisi'ydi. İkinci Dünya Savaşı'nın
    son günlerinde "tarafsız bölge" Türkiye'ye sığındı. 26 Temmuz 1945'te,
    Ankara'da, barakamsı evinde, önce eşini öldürdü, sonra harakiri yaptı...
    11 gün sonra Hiroşima bombalandı. Asri Mezarlık'a gömülen Çibalar'ı
    diplomat oğulları Kazuo Japonya'ya taşıdı. Torun Akira Çiba da bir
    diplomat ve...


    Kennedy Caddesi'nde, 26 Temmuz 1945'te...
    Şinçi Çiba, Japonya'nın Portekiz büyükelçisiydi. İkinci Dünya Savaşı
    yıllarında "tarafsız ülke" Türkiye'ye sığındı. Potsdam'da Japonya savaş
    suçlusu ilan edilince önce eşi Miyoko' yu öldürdü, sonra harakiri yaptı.
    Oğlu ve torunu da diplomat olan Çiba, Samuray soyundandı.


    Geçen Kurban Bayramı'nın birinci günüydü. Ocak'tı, her yer karla kaplıydı.
    Ankara'nın Kennedy Caddesi'nde bir Japon'un sokağa bir şişeden su
    serptiğini kimse gördü mü, bilmiyorum! Görenlerin ne düşündüklerini bilmek
    ise olanaksız! En azından, "Bu havada, bu Japon, böyle ne yapıyor? Şu
    Japonlar, ne garip insanlar?" diye düşünmüş olabilirler. Ancak, 47
    yaşındaki Japon'un kim olduğunu; suyu neden, o noktada sokağa
    serpiştirdiğini ben biliyorum!
    * * *
    Yıl 1945... Ekmek "vesika-belge", kaput bezi nüfus kâğıdına basılan
    "damga" ile alınıyor. Komşuları, kahve dışında mahallenin tek radyosuna
    sahip İzmir Eşrefpaşa Posta Müdürü Hilmi Acar'in evinde "ajansı-haberleri"
    dinlemek için toplanıyorlar. Pencereler, perdelerden ayrı, simsiyah kâğıt
    perdelerle de iyiden iyiye örtülü. Hava saldırılarına bir önlem olarak
    karartma kuralları uygulanıyor, sokağa ışık asla sızmamalı. Biri
    Kadifekale'de, öteki Göztepe'de iki dev "ışıldak", yabancı uçakları
    belirlemek amacıyla geceleri gökyüzünü tarıyor. "Ajans"; bir Hitler, bir
    Churchill, bir Stalin, bir Roosevelt, deyip duruyor. "Müttefikler" ya da
    "mihver" ordularının ilerlediğinden ya da gerilediğinden söz ediyor. En
    çok kullanılan sözcük "cephe"! Bir de anımsadığım, "ajans sever"
    konuklarımızın kimilerinin "Almancı", kimilerinin "İngilizci" oldukları,
    haberlerin ardından, bir futbol maçı sonrasındaki gibi şiddetle
    tartıştıkları!
    O günlerde ajansı izleyenler arasında Japonya'nın Portekiz'deki
    Büyükelçisi Şinçi Çiba ve eşi Miyoko'nun olduğunu yıllar sonra öğrendim.
    Çiba çifti "cephe" haberlerini siyasal sığınmada bulundukları "tarafsız
    ülke" Türkiye'nin başkenti Ankara'da, basit tek katlı barınağımsı
    evlerinde izlemişlerdi. Kulakları altı ay İngiliz BBC ya da Berlin
    radyolarındaydı ve heyecandan öte kaygılıydılar!
    * * *
    16 yıl aradan sonra geçen Ocak ayında, ilk kez bir Japonya Başbakanı
    Juniçiro Koizumi Ankara'ya geldiğinde bir sürpriz ile karşılaştık. Japon
    Dışişleri Bakanlığı Sözcü Yardımcısı Akira Çiba, bir akşam yemeği
    eşliğinde, sınırlı sayıda Türk gazetecisine Koizumi ziyaretinin perde
    arkasını anlattı. Gündeminde, Japon askerlerini ziyaret etmek için Irak'a
    gitmek de vardı. Sözcü, "kesin değil" dedi. Ben "Güvenlik nedeniyle gizli
    tutuluyor, ama gidecek" dedim. İddiaya girdik. Kazanan sözcü oldu.
    Tokyo'dan gönderdiği iletide, kazandığı iddiaya karşılık çok sevdiği
    "Mehter Marşlarını" içeren bir CD istiyordu. Elbette, gönderdik!
    Resmi açıklamasından sonraki söyleşide anlattıkları, Başbakanın ziyaretini
    bir anda geri plana itti. Yan yana oturduğumuz için bir ara ikili
    söyleşirken bir soruma yanıt olarak Türkiye'ye daha önce gelmediğini
    söyleyen Çiba, sonra hüzünlü bir sesle "Ama" dedi "Ankara'nın benim için
    bambaşka özel bir anlamı var". Sonra, dedesinin Ankara'daki altı aylık
    yaşamını anlattı. Olağanüstü trajik bu öyküyü o günlerde Cumhuriyet'te
    kısa bir haber olarak yazdım. "Dedem Şinçi Çiba, 2. Dünya Savaşı'nda
    Portekiz'de büyükelçiydi" diye başladığı öyküyü şöyle sürdürmüştü Çiba:
    "Savaşın müttefiklerin lehinde gelişme göstermesi üzerine en yakın
    'tarafsız ülke' olan Türkiye'ye siyasal sığınmada bulunmuştu. Ankara'da
    bugün Kennedy Caddesi denilen yerde, alçakgönüllü barakamsı bir evde,
    babaannem Miyoko ile yaşıyorlardı. O günlerde Lizbon'dan ya da Ankara'dan
    Tokyo'ya uçakla geri dönmeleri olanaksızdı. Avrupa'nın değişik
    ülkelerinden de pek çok insan, güvendikleri tarafsız Türkiye'ye
    sığınıyorlardı. Dedem ve ninem de onlar gibi Türkiye'ye güçlükle ulaşmış,
    Ankara'da oturmaları uygun görülmüştü. O tarihte Ankara'da Japon
    Büyükelçiliği yoktu."
    Öykünün kahramanlarının fotoğraflarını istedim Çiba'dan, gönderdi...
    Özellikle bugün yayımlıyorum. Çünkü!
    * * *
    Önce o günlerin tarih dizinine özetle göz atalım:
    4-11 Şubat 1945: Karadeniz'de Kırım Özerk Cumhuriyetinin başkenti,
    Akmescit'in 79 km. güneyinde Yalta'da ABD adına Franklin D. Roosevelt,
    İngiltere'den Winston Churchill ve SSCB'den Josef Stalin buluşmuşlardı.
    Churchill, Roosevelt ve Stalin'in dünyanın siyasal paylaşımını yaparken
    bırakıldığı izleyicilik rolünden dolayı düş kırıklığı içindeydi.
    23 Şubat: Tarafsız Türkiye savaşı yitirdikleri anlaşılan Almanya ve
    Japonya'ya savaş ilan etti. O tarihten sonra Çiba çiftinin Ankara'daki
    durumu belirsizleşiyordu.
    7 Mayıs: Hitler'in Almanya'sı müttefiklere "beyaz teslim bayrağını"
    kaldırdı.
    17 Temmuz: Müttefikler, Alman ve Japonlara imza ettirecekleri barış
    anlaşmasının ilkelerini görüşmek üzere Berlin'e 30 km. uzaklıktaki
    Potsdam'da buluştular.
    Toplantıya ABD adına önce Franklin D.Roosevelt katıldı, onun ölümü üzerine
    yerini yardımcısı Harry S. Truman aldı. İngiltere'yi ise seçimi yitiren
    tutucu Churchill'in yerine de İşçi Partisi'nden Clement Atlee temsil etti.
    Alman ve Japon "savaş suçlularının" yargılanmasına ilişkin toplantıda
    alınması öngörülen ilke kararları dünya radyolarına yansıdı. Babamın
    "ajans sever" komşuları gibi, Ankara'daki Çiba çifti ile Yozgat'ta bir
    kampta "enterne edilmiş- gözaltına alınmış" sivil Almanlar Potsdam
    haberlerini, parazitli kısa dalga radyolardan dinliyorlardı.
    * * *
    Şinçi Çiba herhangi bir büyükelçi değildi, kökü binlerce yıl geriye giden
    "Çiba" adlı bir Samuray ailesinden geliyordu. Postdam'dan gelen haberler
    onda herkesten çok kaygı uyandırdı, çünkü siyasal sığınmacıdan "savaş
    tutsağı" konumuna geçmişti, şimdi de "savaş suçlusu" ilan edilebilirdi. O,
    bir Samuray'dı ve gereği neyse o yapılmalıydı! Ancak eşi Miyoko'yu
    arkasından yalnız bırakmak da istemiyordu. Kararını 26 Temmuz sabahı eşine
    açıkladı. Geleneklerine bağlı bir Japon kadını olan Miyoko kocasına itiraz
    edecek durumda değildi. Evdeki ekmek bıçağı ile önce eşini öldürdü Şinçi
    Çiba, sonra kendi karnında "harakiri" eylemini gerçekleştirdi. Çift,
    Ankara'da Cebeci'de Asri Mezarlık'ta, bir duvar kenarında dinsel kurallar
    yerine getirilmeden gömüldü.
    * * *
    2 Ağustos: Çibalar'ın harakirisinden bir hafta sonra Potsdam Toplantısı
    "savaş suçlularının yargılanmasına" ilişkin ilke kararlarını da alarak
    sona erdi.
    6 Ağustos: ABD, Japonya'nın Hiroşima kentine ilk atom bombasını attı.
    Binlerce insan öldü, on binlerce insan yaralandı ya da sakat kaldı.
    * * *
    6 Ağustos'ta Şinçi Çiba'nın oğlu Kazuo Japon donanmasında görevliydi. O
    sabah gemisiyle açık denizdeyken, Hiroşima'da ilk atom bombasının
    patlayışını, mantarını, zehir bulutlarını gözleri ile gördü. "Babam Kazuo"
    diye anlatıyordu Akira Çiba "Annesi ile babasının 11 gün önce Ankara'da
    öldüklerinin haberini alamadan, dünyanın bu en acı olayına tanık olmuştu".

    * * *
    9 Ağustos: İkinci atom bombası Nagazaki kentini, insanları ile yok etti.
    10 Ağustos: Japonya, İsviçre aracılığı ile ABD'ye başvurup "Japonya
    İmparatoru'nun hak ve ayrıcalıklarına dokunulmaması koşulu" ile teslim
    olacağını bildirdi. Öneriyi ABD değil, ileri görüşlülükle, general Douglas
    Mac Arthur kabul etti.
    2 Eylül: Tokyo koyunda Missouri zırhlısında Japon Başbakanı Suziki,
    Japonya'nın teslim anlaşmasını imzalayıp ülkenin yönetimini Mac Arthur'a
    teslim etti.
    * * *
    Baba Kazuo Çiba, tüm özel ve genel acılarına karşın, general Mac Arthur'un
    Japon İmparatoru'na saygı göstermesini olumlu karşıladı. Eğer Mac Arthur,
    "Güneşin Oğlu" olan imparatoru aşağılasaydı, bir Samuray çocuğu olarak,
    öteki vatandaşları gibi, birkaç Amerikalıyı öldürmeye ant içmişti.
    Sonraları Tokyo'da üniversiteyi bitirip Dışişleri Bakanlığına girdi Kazuo.
    1959'da, Tahran'da Japon Büyükelçiliği'nde görevliyken, oğlu Akira doğdu.
    1979'da "Ortadoğu ve Kuzey Afrika Genel Müdürü"yken görev gereği yolu
    Ankara'ya düştü. Anne ve babasının kemiklerini Cebeci Asri Mezarlığı'ndan
    çıkarıp soyadlarını aldıkları Chiba ilindeki bir mezarlığa götürdü. Kazuo
    1988-91 yılları arasında İngiltere'de büyükelçilik yaptıktan sonra
    İmparator Akihito'nun sözcülüğüne getirildi. İmparator, Kraliçe
    Elizabeth'in resmi konuğu olarak 1998 yılında Londra'ya yaptığı ziyarette
    2. Dünya Savaşı'nda Japonlara tutsak düşen İngilizlerin tepkisi ile
    karşılandı. Göstericiler imparatorun ziyaretini Japon kamplarında,
    Thai-Burma demiryolu üzerindeki "Kwai Köprüsü"nün inşasında çalışırken
    ıslıkla çaldıkları "Albay Bogey" marşı ile kınadılar. Bir İngiliz
    gazetecinin "Gösterileri nasıl değerlendirdiği" sorusunu, sözcü-büyükelçi
    Kazuo, "Japon basını bugünlerde Dünya Futbol Şampiyonası ile ilgileniyor"
    diyerek yanıtladı, yani göstericileri görmezden gelmeyi yeğledi. Kazuo
    Çiba 24 Eylül 2004'te öldü.
    * * *
    Başta "tarafsız bölge" olan, bitimine yakın savaşa katılan Türkiye ABD
    tarafından ödüllendirildi. 5 Nisan 1946'da Japonya'nın teslim anlaşmasını
    imzaladığı Missouri gemisi İstanbul limanına yanaştı. Zırhlı, Nasuhi-Ahmet
    Ertegün kardeşlerin Vaşington Büyükelçisi babaları M. Münir Ertegün'ün
    cenazesini getirmişti. PTT o günün anısına bir özel pul da çıkaracaktı.
    1952 Haziran'ında ise Kore Savaşı nedeniyle Tokyo'da Türkiye Büyükelçiliği
    açıldı, bir yıl sonra da Japonya Ankara'ya diplomatlarını gönderdi.
    * * *
    Geçen Ocak ayında, karla kaplı Ankara'da sokağa su döken Japon Akira
    Çiba'ydı. Şişedeki de su değil, "saki-japon pirinç rakısı"ydı. "Dedem"
    diye bitirdi öyküsünü Çiba "Ankara'da Samuraylığın gereğini (!) eşi ile
    birlikte yerine getirdi. Bu nedenle yaşadıkları yeri ziyaret ettim, onlara
    saygı için evlerinin olduğu sokağa saki döktüm. Ankara, öteki Japonlara
    kıyasla benim için bambaşka bir anlam taşıyor". l

    Şinçi Çiba öğrenciyken (üstte sağda)...
    Oğul Kazuo, Cebeci Mezarlığı'nda baba ve annesinin iskeletlerini
    çıkartırken (üstte)...

    Samuraylar Kimdir?
    "Daimyo" Japon geleneğinde bir "kabile-aile"nin "başı" konumundaki
    "derebeyi-ağa" anlamında bir unvan. "Samuray" ise "daimyo"nun hizmetindeki
    savaşçılar. 17. yy öncesinde samuraylar, hizmetlerinin karşılığını
    "pirinç" olarak alan, iki kılıç taşıma ayrıcalığına sahip kişilerdi.
    Ateşli silahların çıkmasından, hisarların yapılmasından sonra "daimyo"nun
    malikânelerinde saray erkânı oldular. İmparatorluğun ortaya çıkışında
    önemli destek gücü oluşturdular. Samuraylar, "buşido-savaşçıların yolu"
    adındaki "onur yasasına" körü körüne uymak zorundaydılar. Onur kırıcı bir
    durumda, karnın bir bıçakla yatay kesilerek parçalanması olan "harakiri"
    ile intihar yöntemini uyguluyorlardı.
    Çibalar, Japonya'da samuraylar arasında en ünlü, etkin, güçlü savaşçı
    aileydi. 1601 yılında bölündüler. Simgeleri "bir hilal ve ucundaki bir
    nokta"ydı. Hilal, "evreni"; nokta ise "kuzey yıldızını" simgeliyordu. Çiba
    inancına göre yıldız daima hareketsizdi, evren onun çevresinde dönüyordu.
    Bilindiği gibi Türk bayrağındaki yıldız "kuzey yıldızı" olan "Venüs"tür.
    Garip bir rastlantı Şinçi Çiba yüzyıllarca sonra kendisi ile eşinin
    yaşamına kabilesinin simgesi olan hilal ve kuzey yıldızı bayraklı bir
    ülkede son verdi...

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