トゥルキスタン夜話

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2006.09.19 Tuesday

ありふれた憂悶の日々

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    私は北朝鮮の拉致被害者家族や飲酒運転の車に子供を殺された人などがテレビに出るたびに思ってしまうのだが…。
    いったい、かけがえのない人を・理不尽にも・生爪を引き剥がされるがごとくに・失った・ことの「ない」人ってこの世に存在するのだろうか?
    かけがえのない人が永遠に「不在」であるという苦痛に耐え、なおかつ幸福そうに生きていくのが当然だと思っていると、かえってそういう臆面もない「悲しみの表出」に驚いてしまう。
    同種の苦痛を生涯抱えていなければならないのに、マイクを握り締め公衆の前で、○○を返せ〜!などと叫ぶことの出来ない無数の人々。
    その苦痛と無念の度合いは、全く同じなのである。(そんなことはない、ともし反論されたら、特別な奴など誰も居ない、と言い返したい。)
    ただ、その背景が陳腐で、誰も同調しないし、聞く耳も持たないから黙っているしかないだけで。
    さらに悲惨なのは、そのことに関してもはやなんら進展の望みがないので、打つべき手がなにもないのだ・・・。

    私はウズベキスタンから引っ越すことになって、Mと別れるとき、全然悲しまなかった。
    通常こんな僻地の国での生活を引き上げる、ということはその地の人々とは一生会えないということを意味するのだが、私はそんなことを全然考えていなかった。
    「あなたに会いにきます。手紙も沢山書きます。」
    とキッパリ言ってさばさばと別れた。
    Mもそれを疑わず車を降り、窓越しに「また!」と言った。
    彼女は「どうせすぐ会えるから」と、空港に見送りにも来てくれなかった。

    そしてそれはちゃんと現実になり、我々はしつこく付き合い続けているのである。
    本当に好きな者の手は決して放してはならない。
    彼女がたとえダブルブロックドカントリー(隣国にも海がない国家のことだそーな)のど真ん中に生息していようと。
    そういう者は多分世界中を探しても二度と見つからず、その人を失うことは世界を失うのと同じであるからだ。
    「私はあなたが居なくては生きていけない。あなたさえ生きていれば、あとの人なんてどうでもいいから。」と私は言う。
    「気難しいあなたがなにゆえそこまで私にこだわるの?私なんてこんなにしがない人間なのに。」と当然Mは不思議がる。
    「さあ、なんででしょう。けけけ(…不気味)。」

    そしてMにもその人が居なければ生きていけない、というようなかけがえのない人が居た。
    ありきたり、といっては失礼だが…それはMの「ママ」だった。
    ママ、と書いたが、Mはこれをウズベキ語で「momo」と発音するので「桃」と「ママ」の間のなんとも甘ったれた音になる。
    Mは本来実に頼りなさげな女なのだが、生徒たちに舐められないように学校ではかなり厳しくやっているらしく、長女で「稼ぎ頭」だということもあって(月収なんと高校と大学を掛け持って15ドル。これはお金持ち!)兄弟たちの間でも「しっかり者」を演じることを強いられている。
    すなわち彼女は職場でも家庭でも完璧な人格を求められていた。
    で、例外的にMがデレデレ甘えられるのはこの世に母親だけだったので、Mはものすごくマザコンだった。無償の愛をもって彼女を優しく見守る存在といえば、彼女には「母親」しか居ないのだから、愛情のはけ口を母親にしかもたないのである。

    私もMの母親には何度か会った。
    でもMが「ママ」の素晴らしさを私にいつも吹き込むので、あまりMの「ママ」には懐かなかった。
    ママのお料理、おいしいでしょ?ママのパッチワーク、綺麗でしょ?ママは強くて頭がよくてなんでもできるの・・・。といった具合だ。結構うっとうしい。彼女のママは極度に無口で、ニコニコしていて、私の目からみれば、なんの変哲もない地味な「おばあちゃん」でしかない。ママに関するいろいろな話を聞いたのだが、あまりよく覚えていない。内心「だいたいうちの母親のがずっと美人だし。」とか思って(←マザコン)すべて聞き流していた。私が好きだったのは、Mが飼っていた牛や子羊や賢い牧羊犬の話だった。ムツゴロウさんじゃあるまいし、そんなものはMにとって何の価値もないのだから、本来はママの話のほうをよく聞いてやるべきだったのだが。

    Mはカザフスタンのサイラムという、生まれ故郷の町の思い出を語ってくれたとき、よくこう言っていた。
    「あそこでは嫌なことが何一つ無いの。ただ、好きな人が死んだ時だけが悲しかった。悪いことはそれだけ。」
    そしてまたひとつ「悪いこと」がおき、彼女の母も死んだのだった。死ぬはずのない病気で。夏の休暇で新米の若い医師しか居ない病院で、簡単な結石除去の手術の後、元気そうだった彼女の母親は突然容態が変わり、あっけなくこの世を去った。

    以来、Mは絶望してしまった。
    教師のくせに登校拒否になり、有給を使い果たした挙句果てしなくずるずると学校を休み続けた。
    「もう、生きていたくないのよ。死ねばママのところにいける、そればかり考えてしまう。」
    何かが彼女の中で壊れてしまった。何か、と、いうより全てが。容貌も変化した。
    もはや誰も信じられないかもしれないが、10代前半のMは花のようにふっくらした美少女だったのである。
    それが姉の事故死の直後(17歳くらい?)、彼女は突然皺深い魔女になってしまっている。
    アルバムの右と左に全く違う人間の肖像があったのをよく覚えている。左側は私の知らない大きな目をした美少女で、右側は私のよく知るMだ。
    両者の間にはわずかの時間と肉親の死が横たわっているだけで、こんなにも変わるものか、と私は呆然とした。
    そしてまた今回、Mは顔面をイバラの鞭で叩かれたようにして急激に老いた。
    マルグリット・デュラスが「18歳で私は年老いた」とか書いていたが(てか、そもそもデュラスは最初から美少女じゃないからどんな醜いヒキガエルになろうと惜しくもないが)、Mの変わりようといったらもう「ハウルの動く城」レベルだ。

    そうして、一段と老いたMは、文字通り、身も世もなく泣き暮らしている。
    私が彼女の家を訪ねたのは、母親の死から半年ほどたっていたにも関わらずそういう状態なのだった。
    繊細にうねるあの亜麻色の髪も(何故か髪だけは美しいのだ。それを指摘したら、「Momoの髪はもっと綺麗で最後まで白髪一本なかった」と言った・・・)喪中スカーフで隠されている。
    意外と女性が開明的であるウズベキスタンでは(確か女性の高校進学率ウズベキスタン86%、トルコ18%とかではなかったっけ。)インテリ女性がスカーフを被っている場合、まず喪中だと思ってよい。
    私はあの強烈なロシアかぶれのMが「スカーフを被ったイスラム女性」の姿でいるのすら好きではないので、面食らうばかりだ。
    粗末なアパート、寒々とした室内、部屋にある装飾品はすべて私の残していったもので、裸電球の濁った灯りは肩に重くのしかかる。私が到着した最初の日は食卓に皿が沢山並んでいたが、驚くべきことに最初の日に用意したものに、そのままナフキンをかけ、食べたくなったら布をはずして、ずっと毎日それを食べる、という状態なので、時間が経つにつれどんどん食事は減っていく。汁物から先に減っていくので、今では殆ど小皿にハムスターのエサのような胡桃とか干しブドウが並んでいるだけで、Mはほんの少しだけそれを口に押し込み、あとは大量のお茶を飲んで、食事を済ましてしまう。仕方がないから私は「あなたの一食って、うちの一ヶ月の電気代より高いわ」と言われたイクラ丼を勝手に作って食べていた。(ウズベキスタンではイクラはキャビアより高い。さらにウズベキのイクラは日本より高いのに、何故こんなところであえていくら丼食べているのか理解に苦しむ。勿論自腹。)

    そして何かの拍子に「医者に渡す心づけが少なすぎたのかしら、40ドル、私にはあれが精一杯だった、ごめんなさい、ママ」などと自虐的な言葉をこみあげ、Mが涙を零すとすぐに妹に伝染し、「神さま(hudo)、嗚呼、神さま!」と言いながら二人で厳冬のカモメの仔のように寄り添ってじっと悲しみに震えるのである。
    分厚いレンズの底から涙がたらたらと滴り、ツララのようなか細い指から手首を濡らしていく。
    死んだ母親の枯れた乳房にすがって永遠に泣き叫んでいるこの老嬢姉妹・・・。
    を、私は横目に眺め、ハイエナの如くがつがつ食べながら、老人に命なんかかけてたら、早晩こーゆーことになるのはわかりきっていたではないか。さあ、二度とこの類の窮地に陥らぬため、愛を分かつことを学ぶがいい。
    そしてその一部を、私に、私にくれ、とますます食い意地を逞しくする。

    で、「悲嘆の儀式」があまりに長いと、やにわに「いつまで泣いているの。あした、私はサイルゴフ(繁華街)に行きたい。連れてってよう!」とせっついたり、「私の贈った芥川龍之介全集(ロシア語)、どうしてちゃんと全部読まないの?」と責めたりする。「貴方だって、私の渡したアブドゥッラ・カドゥリ(ウズベキスタンの偉大な作家)読まなかったくせに・・・。」などと言い、Mは泣きながらギクシャクと笑う。「あら貴方のパジャマの柄、ママのいつも着ていた部屋着の柄(白黒のチェック)と同じだわ…。」じゃあ、あげるわよ、こんなもの、ばかばかしい。私はパジャマを脱ぐとMに投げつけ、寝床にもぐりこんでしまう。恐ろしく使い込んだシーツ類は今にも破れそうにとろっと柔らかく、中で手脚を泳がせば湯葉を舌で突き破るような危うい感じだ。私が寝ているベッドの頭のほうには本棚があり、そのガラス戸には大きく引き伸ばした「ママ」の写真が貼り付けてあるので、Mは寝る前に「礼拝」しにくる。鏡を見るが如くその写真と向き合い、なにか呪文を唱えながら、手を伸ばして写真を愛撫するのだ。Mの名前はアラビア語で「神聖」という意味だが、その姿は本当に巫女か魔女のようで、伸ばした手からずるっと写真の中に入って消えてしまってもおかしくないように思われる。恐怖にかられてうつぶせのまま布団(コルパチャ)からにょっきり顔をだし、「ねえ、死んじゃいや。」と睨みつけると、Mは分からないわ、もう私、わからないの。となおも脅すのだった。

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