トゥルキスタン夜話

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2006.11.23 Thursday

ある日、ある本を読み、全人生が変わった。

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    作家はブサイクでナルシストで思想的にオカシい憎むべき不愉快な人物であることが多いが、ノーベル賞受賞作家となったオルハン・パムク(私はパムクよりパムックのがピンと来る。撥音じゃないのだが「クku」にくっつく母音「u」をなるべく取り去りたい)も勿論例外ではない。
    私の周辺だけかもしれないが、彼はすこぶる人気がなく、ノーベル文学賞を取ったときも「トルコ人とったじゃん、よかったね。」などと言おうものなら非難ごうごうな感じであった。「国を売って、個人的な名声を得やがって、恥を知れ!」というのがその代表的な意見だ。
    事情を知らない日本人は見境なくトルコ人に「おめでとう!」などとといって不愉快そうな顔をされ、「なんで怒ってるのだ???」と、びっくりしたことだろう。

    なんか今年の7月に武富士の会長が死んだ時のことを思い出す。
    その日、私はトルコ人の友人の家に呼ばれていたのだが(レインボーブリッヂと海の見える、それはそれはイスタンブールの私の家に酷似したお宅だった。御丁寧な復讐だこと!)その場のトルコ人が皆、「本日は貴国の名士の方がお亡くなりになり、残念でしたね。」みたいなことを言うのである。誰のことだかサッパリわからなかったが、「ほら、日本で一番か二番かにお金持ちの人ですよ。いはば日本のビル・ゲイツですわよね?」などと言っている。金持ちという言葉から類推して、え?ひょっとしてあの刺青入りの金貸し屋の創業者のこと言ってるのかと思い当たり「タケフジのカイチョーのことでせうか?」と聞き返したら、「さふさふ。日本のサバンジ・アアみたいな方ぢゃあなくって?」「おほほほほ・・・・・・(冗談ぢゃねーよ!)。」ある意味国民的人気者でもあり、天皇陛下から勲章を貰っていたよーな財閥の長と武富士の会長なんて全然違うだろー!何言ってんだよ、てかあんた達、そんなんでよく給料もらえるな、と絶句した覚えがある。

    ま、なにが言いたいがというと、いくら金持ちだからと言って、武富士の会長が死んでも普通の日本人が悲しむわけじゃないのと同じに、オルハン・パムックがノーベル賞をとっても普通のトルコ人は嬉しくなかったりするのである。オルハン・パムックとは「そんな奴」なのだ。(私が思うに彼はちょっと大江健三郎に似ている。)

    ところで、彼がノーベル文学賞を受賞してすぐ、トルコで死傷者の出るバス事故があった。
    私はわくわくし、テレビに噛り付いたり、盛んにネット検索をしたりしていた。
    ああ、このニュースの解説をする時、誰かが「地雷」を踏んでくれるのではないか?!・・・そう期待していたのである。
    「トルコでバス事故?そりゃ貴重な体験をされてよかったですね。バス事故こそが新たなる人生への入り口だとパムク氏は言っていますしね。死ぬ瞬間に天使が舞い降りるそうですよ。」
    といったような、気の利いた発言をしようとして、真意が誰にも理解されず、国民から猛抗議を受ける識者や、炎上したりするブログを見たくてしょうがなかったのだ。(性格悪し)
    しかし、粘り強く一ヶ月以上待ったがどうやら誰も踏んだ人はいないらしい。仕方がないので自分で書こうと思い立った次第である。

    オルハン・パムックにはやたらとバス事故が出てくる小説があるのだ。それは「新生yeni hayat」という小説で、(ダンテの『新生』からとった題名。でも私にはなんとなくディペッシュ・モードの曲『new life』からとったんじゃないか?という気もする。)、トルコでは最も売れている本の一つである。
    あらすじはこうだ。(ネタバレ有)
    平凡な大学生が一冊の本を読む。彼は「人生の全てが変わった」と思い込み(トルコ語のできる日本人はなぜか皆、余りにも有名なこの本の出だし、Bir gun bir kitap okudum ve butun hayatim degisti.のところだけを丸暗記している。そしてそういう人は大抵最後まで読んでいない・・・おいおい出だしで満足するなよ、って思うのだが。)、その本を読むきっかけを作った同じ大学の少女に恋をする。やがて少女が失踪すると彼は全てを捨てて、放浪の旅に出る。それが「バス旅行」なのだ。トルコのバスは「案の定」やたらと事故を起こす。最初の事故を経験した後、彼はある種の「覚醒」をする。『…時間とは何だ?事故だ!人生とはなんだ?時間だ!そして事故とはなんだ?違う人生、新・生だ!』それからは、敢えてバス事故に遭遇したい!と、わざわざ「悪い道を通る」「深夜の」「安い会社の」バス、「眠そうな」運転手を探してバスに乗りまくる。ある日「バス事故」が起きたとき、彼は失踪していた少女とめぐり合う。その後二人は「事故」に遭遇することを求めて二人で隣同士に座り、またバスの旅を続ける。次々に事故が起きる。彼ら自身は助かるものの多くの死にゆく乗客を看取ることになる。『そう、事故とは出口で、出口こそが事故なの。天使は魂が抜け出るの時の、夢幻の境でなら、実際に目に見えるのよ。そのときこそ私達が人生と呼ぶところのこの混沌が、真の意味を持ってその姿を表すのだわ…』人々は皆、天使を見、それから、「新生活(死)」に入っていく。少女には恋人が居て、彼も同じくその本を読んで以来失踪し「バス事故」で死んだことになっている。少女はその彼氏を探しているのである(主人公は少女を愛するが片恋に終わる)元彼の父親が作ったスパイ組織の挿話、主人公の叔父の挿話、天使マークのキャラメル(キャラメルはフランス語からの外来語ではく、kara(陸・黒)-melというトルコ語だ、というトンデモ説がでてくる)の挿話、主人公による元彼ピストル殺人、その後の少女の別の「読者」である医師との結婚、などいろいろな話が絡み合い、最終的に主人公は「バス事故」で命を落とす。

    ・・・ここまで徹底的に「バス事故」にこだわり(列車事故じゃ駄目なのだ。何故なら作中の本の作者は鉄道職員だからw)、そこに深遠な意味合いを与えた小説を私は他にしらない。(D・クローネンバーグの『クラッシュ』という映画は、自動車事故で生き残った後、その性的快感が忘れられず人為的に事故を繰り返す、という話だった。『新生』の場合、車ではなくバス、性的快感ではなく霊的幻視感という違いはあっても、事故にこだわり、事故に執着する、という点でちょっとこの映画に似ている。)

    で、私は「トルコにおけるバス事故」が天使や新生に結びつく時の、独特の感覚が理解できる気がする。鉄道網が脆弱なトルコでは都市間の移動はバスに頼らざるを得ず、それがまた列車とは違いなんとも危うげで、刹那的で、先行き不安で、やるせない旅の抒情を醸し出すのである。私もまた「新生」の主人公のように闇雲にバスに乗ったことがあった。シリア国境沿いの都市のホテルにパスポートを置き忘れ、そのまま長旅に出てしまったのである。わざわざパスポートを取りに戻るのも面倒なので、私は宿の主人に電話をし、最終目的地のイスタンブールで泊まる予定のペラパレスにパスポートを送ってくれるように頼んだ。パスポートがないと、外国人は安宿にすら泊まれない。仕方がないので、パスポートが届くまでの一週間の間、ひたすらバスを乗り継いでトルコ中をぐるぐる回っていた。PKKの活動華やかかりし頃、身分証明書もなくトルコに滞在するのは本当に不安な状態である。熱を孕んだ額を窓ガラスに押し付けながら私は独りでバスに乗り続け、冬の曇天に沈む荒涼としたアナトリア平原をあてもなく走り続けていた。他の乗客を起こさないため、咳を無理矢理飲み込むせいか、呼吸は血の味がした。そして、大晦日の真夜中、「新生」の主人公の死の場面と同じく私は一番前の席に座っていた。大雪の中で100キロ以上スピードを出していたバスは「案の定」スリップする。東山魁夷が描くような蒼い雪原の静寂のなかで、私の乗った巨大な棺桶は池から跳ねる鯉のように嬉々として宙を滑り虚空間を「死に向かって」直進した。病に疲れきった私はせまり来る沿道の建物を見つめ、「どうせ私には何もないんだし、どうなってもいい。」と諦めていた。恋人の名前すら呼ぶ気力もないのだった(君を忘れていたのではなく、呼んでも意味が無いことを知っていた。)。オルハン・パムック風に言うなら、天使に導かれて健やかに「新生活」に移る用意があったのである。バスは大幅に道筋を外れてやっと停止した。衝撃で起きた乗客が悲鳴をあげ、運転手と客の怒号の応酬が始まり・・・。

    私は、「去年マリエンバードで」温泉水を飲んだり、「尼僧ヨハンナ」に会ったり、といった架空の記憶が現実になる経験をすると興奮するたちなので、実は(オルハン・パムックの書いた)「あの」バス事故の片鱗に触れたことが密かに面白かった。思うに三島由紀夫のごとく死に演劇性を求め、なおかつ自分の人生や命などに執着がなく、できれば早く死にたくてたまらぬ人にとっては、最後に「これがオルハン・パムックの言ってた新生か…。」と思いながら死ぬのはかなり洒脱で悪くないと思う。(主人公自身『やっぱ死にたくねー!』と意外な過去生への執着を見せつつ死ぬのだが、私はそういう風には死なないはずだ)

    しかし今回の事故映像を見る限りでは、当然ながら誰もそういう様子はなく、日本人乗客たちはひたすら不幸そうで余裕が無い状態であった。打ちひしがれて、呆然とし、生きようと励ましあい、泣き叫ぶのが精一杯で、誰も精神の飛翔を祝福する様子などない。こういう凄惨な現実に対して、「ああ、夜行バスの乗客たちよ!不幸なる同胞よ!僕は知っている。あなた方もあの無重力の時間を求めていることを。ここでもなく『向こう側』でもない、二つの世界の間の安らかな庭で別の存在となって浮遊しようとしていることを。皮のブレゾンを着たサッカーオタク、君が待ち遠しくて仕方がないのは、実は翌日の試合ではない。君が待っているのは、『大事故』だ。その時君は、鮮血に赤く染められた『英雄』になれるのだから。ビニール袋からしょっちゅう何かを取り出しては口に放り込んでいる神経質な中年女。僕は知っている、彼女はその姉妹や甥や姪の所へ向っているんじゃない。そうではなく、彼岸の扉に到達するために、その命すら捨てるんだ。測量士が居る。目を開いては道を、閉じては夢を見ている。だが彼が測量しているのは、現実に立っている建物ではない。この世の全ての土地の背後に広がる『彼我の交差点』を、彼は測量しているのだ。そして一番前の席に座った青ざめた顔の恋する高校生。彼が夢見ているのは恋人ではない。事故という、あの暴力との邂逅なんだ。だから彼は乙女の唇ではなく、バスのフロントガラスに熱愛と欲望を持って口づけすることになるだろう。バスの運転手が強くブレーキを踏んだりバスが強風に煽られたりすると、僕たち乗客全員はこのような期待に思わず胸を膨らませてしまう。たちまち眼を開け、闇の前途を睨み、あの魔の時が訪れるかどうかを計る。ああ駄目だ、また来てくれなかった!」というようなことを言えてしまう「作家」というのは、やはりとんでもなく曲者で性格が悪く下らん妄想の塊なんだな、と思う。ああ、なんという残酷!Senin allah'ın yok mu?

    で、私は現実生活ではなかなか口にしない(できない)ことなので、こっそり告白すると、実は・・・実は・・・このオルハン・パムックが好きなのである。感性が近いのか、なぜか結構泣ける。(トルコ人の友人は無神経で観察眼が無いから誰も気付かないが、日本人の友人には『貴方、オルハン・パムック好きでしょう?』と見破られることもたびたびある。そう、嫌いであるはずがない!)今回ややじっくり読み直してみて、冷酷な逆説と理論の飛躍に翻弄されるのは本当に楽しかった。私は今、人生で最も長く愛した美しい者を見取り、冷たくなりつつある死体の傍らでこれを書いているが、「これが新生yeni hayatだ。」と言い聞かせると、自分の筆記と詐術に慰められる形で辛うじて平静を保てるのであった。22:20 23/11/2006 

    NOT
    あと・・・これは言ってしまおうか非常に悩むのだが・・・ひょっとしたら「そー!そー!」と共感してくれる人もいるかもしれないので、書いておく。
    彼の小説にはやたらと「オナニー」という単語がでてくる・・・気がしないか?私は女性作家の本を読むことが多いせいか、この単語をよく使う人をあまりしらない(みうらじゅんとか以外は…)。だいたい世の中には「書かずもがな」のこととゆーのがあって、いちいちそんなこと書かなくてもいいのに・・・、と思うのだが、オルハン・パムックはこの行為をまるで「食事」とか「睡眠」のようにぴょこぴょこと律儀に表記するのである。「あそこではマストゥルバスヨンばかりしていた。(女性に話すときはこのフランス語を使う)」「奴は○○モスクのトイレでオナニーしている。あの、美しい手で」「ソレ用の猥褻雑誌」「時間つぶしのオナニー」等々。私が意識しすぎなのかもしれないが、この単語が出てくるたびにちょっと違和感を感じるのもまた確かだ。あまり性的なシーンが多くないし(女性を美化しすぎるので、どことなく不能感が漂う)、性的な単語も使われないのに、なぜにこればかり?!よくわからないがトルコのナイーブなインテリ層にとって自慰は生活の一部なのさ!ということでいいのだろうか?・・・てか、トルコ人的にはどーなのよ?!と聞いてみたい気がする(そういう気の置けない友達が居ないので聞けませんが)。私が思うに、こういうことを表記する作家ってなんか「景気が悪い(笑)」感じ、というか文学青年以外には好かれないんじゃないだろーか?この人がトルコの一般民衆にあまり好かれないのもこういうこと平気で書いちゃう人だからじゃないのか?
    ちなみにこの単語は日本語訳では「手淫」となってたりした。そー言われると、シュイーーーン!という擬態語を伴って「純文学」という名の手裏剣が眉間に刺さるような気分になるのは私だけでしょーか。。。

    コメント

    はじめまして。
    私も「パムク」より「パムック」のほうが好きなので興味深く読ませていただきました。

    トルコのミリエット紙の調査ではノーベル文学賞を「嬉しい」と答えた人が26.4%だったというのも、私としては驚きでした。

    まずはアラ・ギュレルの写真--パムックには少しだけ(笑)--に興味があったので「イスタンブル」(英語版)を読み始めましたが、これが意外に面白い! 次は文学作品を読んでみたいと思いました。こちらで「新生 Yeni Hayat」のあらすじを紹介されていますが面白そうですね。本当は原文で読んでみたいのですが、私の場合読み終わるまで何年もかかりそう、(というよりは挫折しそう)なのでまずは英語で読むことになるでしょう。
    2006/12/14 12:29 PM by エミ
    初めまして!
    ひょっとして知るひとぞ知るあの「エミ」さんですね?こんなしがないブログ、お読みいただいてありがとうございます。

    私も実は『イスタンブル』(トルコ語版)、読んでいるところです。
    ベイオウルに住んでいた時には敢えて顧みる価値もない日常だったものが、軽い忘却と脚色を経て提示されると味わい深く思えたりして。
    アラ・ギュレル・・・イスティクラール通りのアラ・カフェは近場だったのでよく行ってました(写真家本人は実は経営者でもなんでもないんですが、何故かトルコ通日本人の間ではそういうことになってますよね・・・)。
    個人的にはパリやイスタンブルのようなフォトジェニックな街って、モノクロで撮れば誰が撮ってもそれなりじゃん、別にブラッサイやギュレル氏じゃなくても…って気も実はしています(笑)。こーゆー→(http://www.fotokritik.com/)素人投稿サイトの作品とかのほうが面白く感じたりもする。私、なんか最近「認識者(芸術家)」を馬鹿にする傾向があるもので。イスタンブルは無論写真家のフレームに収まりきってしまうような都市ではありませんしね。

    ところで、最近交通事故で亡くなった子供の写真を使って悪趣味なコメントしていた小学校教師が糾弾されていますが、私がオルハン・パムックに感じたことも、同じ気持ち悪さ、だということに気付きました。明らかにこの人、死体描写好きだし(笑)
    「純文学」なら変態でも無神経でもそんなに顰蹙買わないのね〜と、かなり勉強になる本ですので?、「ニュー・ライフ」是非読んでみてくださいv

    それにしてもトルコ人が受賞したからといって、日本の常識を単純にあてはめて「わーい!トルコ人の皆様オメデトウ!」モードにならず、きっちり出典つきで統計を見てみる、なんて常人の業ではありませぬ。>ミリエット紙の調査
    素晴らしいです。天晴れです。そんな方にコメントいただけるなんて光栄です。
    2006/12/14 6:33 PM by 蜜月

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