トゥルキスタン夜話

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2009.02.03 Tuesday

妬心は蜜色。

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    キャラメルというレバノン映画を見た。
    変人官僚な某紳士がすすめてくださったからである。
    でも、そうじゃなくても、私のなかの「あるセンサー」が感知した、んだよな・・・。我ながら隠されたL-WORDにやたら敏感なことには驚いてしまう。

    とにかくこの映画、誰が見ても損はしない佳作であることは間違いない。なんせ主演・監督・脚本を努めている女性が恐ろしく美しいのである。退屈な映画(死ぬかと思った。橋から落ちる親父が撮っていたフィルムが星島貴徳の同人誌のような鬼畜変態系とかだったらバランスがとれて許せる、と何故か思ったけど、そんなことは全然なかった。誰がどう褒めようが、どんな権威ある賞をとろうが私にとっては単なるつまんない映画)を出品してカンヌ映画祭で賞をとった日本人監督とか北野武と比べるともう、その差歴然(笑)肉体の美という、己に与えられた天賦の才に惑溺せずに、ここまでの傑作を残せるなんて、その精神力にも脱帽である。とにかくひれ伏すしかない美しさと才能。

    レバノン女性の群像劇なのだが、いわゆる「ガールズ・トーク」的な、恋と友情にまつわる5人の女たちの赤裸々な生態が描かれる。「SATC」をはじめとする米ドラとかアルモドヴァル作品と似た手法。不倫、処女膜再生、老嬢の恋、介護、同性愛、更年期障害、などなど軽い異端的要素が見られるテーマ内包しているので、どこの国の人が見ても絶対浅く共感できるはず。世界130カ国で上映された、というのがうなずける。

    物語自体に破綻や激烈なところはないのだが、私にとっては結構強烈。
     そう、実は私、「ガールズ・トーク的世界」が苦手なのだった。特に生理ネタは大嫌いでスカートに血がつくとかそーゆーシーンには「生理的に」拒否反応がでてしまうので、よくも悪くも衝撃的(笑)。しかもその血は閉経した女性が己を若く見せるために、わざと絵の具をつけたもの・・・、とかもう、意味不明だ。そんなことするくらいなら、表参道ヒルズの地下一階広場で素っ裸になり、珍獣ハンターイモトのメイクで「どじょうすくい」でも踊ったほうが全然マシなよーな気がするんだが。女ってわかんない、わかんなすぎ。(しかも、この映画、全て素人を使って撮影しているのである。この更年期障害女を演じたひとは「某会社の秘書」だそうで・・・。よくこんな役引き受けたな、とびっくりしてしまう。その蛮勇こそが一番ドラマチックかも。)

    しかし思い起こせば、中東って割りとこの手の赤裸々さが許される地域なんだよな・・・。男が絡むエロは許されなかったりするが、メス同士ではなんでもアリ、というような。男性は隔離されているからメスの赤裸々さを目にすることはなく、幻想は守られてはいるのだが。

    そういう「中東女のあけすけさ」をよく生かした映画なのだが、一点「赤裸々の出し惜しみ」をしているところがあり、私はそれをモッタイナイと感じた。
    それは主人公が不倫相手の自宅に乗り込み、奥さんに「ホームエステ」をやってあげるシーン。これが不倫をやめるきっかけになるのだから、物語のキモとなる最重要シーンである。映画では奥さんの指にぺティキュアをしたり、結婚記念日の準備話をしたりするだけで、緊張感を孕みつつ、かなり「さらっと」した描き方だ。

    しかし私はここで「描くべき」ことが描かれていないがために、どうして不倫をやめたのかがボヤけていると感じる。
    言いたくないが敢えて言う。
    このシーン、「不倫相手の配偶者の性器を見た」というシーンでなければならないと私は思う。

    ・・・・・・シーン。

    シーン、じゃないって!(笑)真面目な話。
    だいたい、キャラメルっていうのはトルコ語でいう「アーダ」のことで、飴の粘着力を利用した脱毛剤である。映画を見る限り、「キャンディーで脱毛するなんておっしゃれー♪」な雰囲気をかもし出してはいるが、町の美容院風エステや自宅でやるアーダの真骨頂って「陰毛脱毛」じゃん。足とか腕とかなら自分でやるよって話。「陰毛?ふーんそんなもんか」・・・と軽く流したアナタは甘い。看護婦によって手術前になされる剃毛なんかとは比較にならない話だから。
    中東全般で行われる陰毛脱毛とは、「前のほう」もさることながら、性器と肛門周辺にまで熱いキャラメルを塗りたくり「びっ!」とかやる、野蛮なまでの徹底脱毛である。(えーっ?と、疑う人は巷に出回っているトルコ本のハマム体験談を読むがいい)敏感な肉と皮を「カタチが歪むくらい最大限に引っ張って」、皺だの襞だののひとつひとつをぎゅうぎゅうのばし、「キャラメル」を塗りこめては毛根ごと引きちぎっていく脱毛。これを赤の他人(往々にしておばさん)がやってくれるのである。とんでもない恥辱プレイであることは間違いなく、いくら金銭を介在させるとはいえ、女同士でこんな極限的なる行為が行われている中東ってスゴイと思う。互いに隠すところはなにもなくなったビアンカップルだってやらないだろ、こんな恥ずかしいこと(笑)

    で、折角主人公が「キャラメル屋」ということなのに、このシーンでこのネタを使わなかったのは非常に惜しい。性交以外のシチュエーションで、他人の女性器をがっつり目の当たりに出来る唯一の職業なのだから、その切り札をここで使うべきなのだ。小説風に言うなれば「あのひとが愛し、子供までなした、その女の股に煮えたぎった嫉妬のキャラメルを塗りこめ、無言で陰毛を引き抜いた。蜜色の飴に毛が混じるにつれ、粘着力がおちていく。熱い飴を足して、また引き抜く。脚を広げさせ、押し広げて観察する。髭に縁取られた歪んだ微笑、まるで私を嘲笑しているかのよう。今夜あのひとの指が触れてすべすべと心地いいように毛を抜く私。惨めだ。こんな惨めなことがあるだろうか?気がつくと、私のなかから恋が消滅していた。」という風に(ナンダこの駄文・・・)。
    「そんなトコロを描いたら本国で顰蹙を買ってた」かもしれないが、このシーンがあったらこの映画、もっとデカい賞を余裕で取れてたと思う。
    ここまでやってこそ「キャラメル」という題名が生きるし、「地方色を生かしたおしゃれ映画」の粋を脱して、個性的な名作となるのではないか。

    …いや、私が下劣好きから言うのではないよ(笑)
    なぜか賞ってもんはそういう、「言わずもがなの、唾棄すべき赤裸々さ(エロというのともまた違うし・・・ハダカというのとも違う)を描いた奴のところに舞い込む」ものなのだ。たとえばオルハン・パムックはオスマン時代のフェラチオ行為なんかを描くよーな奴じゃなかったら、ノーベル文学賞とれなかったし、「存在の耐えられない軽さ」のクンデラとかもまた、然りだと思う。勿論「赤裸々なとこ」だけ書けても駄目で、そのほかの部分こそが素晴らしいのは大前提なのだが、赤裸々さを描ききる力量を持ち、しかもそれが「世界が見たことが無い新しい行為である」ということ。(「存在の耐えられない軽さ」には主人公の男が自分と同じくらい長身の女と向かい合って立ち、リング状の肛門の括約筋を触りあうシーンがあった。「へ〜不思議な光景だなあ」と感心してしまう「新しい行為」だ)何故かそういう作品は「世界」がとても評価してくれるのである(笑)理由はわからないが「幅広い技量を持つ表現者」だとでも思われるのだろう。

    で、この映画、脚本も映像も音楽も申し分なく素晴らしいんだけど、破綻がない。最初から最後まで観客の想像を全然超えないで話が進む。処女長編なのだから多少稚拙だったり荒削りだったりするところがあってもいいのに、それすらない。「何も裏切られない」という、最大の裏切りを犯しているのだ。
    そういう場合、ココゾというところで「赤裸々」ブラフを切る、というのは映画や小説の常套手段である。この美しい監督は「そこまでしなくてもいい」と思ったのだろーが、そこで「描かなくてもいいことを描くか描けないか」で鬼才と秀才の分かれ道があるのに。「不倫相手の嫁の陰毛を脱毛してやる屈辱」というのは「映像化されたことがない稀有なシーン」になったはずなのに。(Mは常々「なにか作品を残すからには世界に『新しい何かyangilik』をもたらさなくてはならぬ」と言ってた)
    ・・・本当に惜しい。

    私もブログにこんな「下品」な仮定妄想を垂れ流すのは嫌なのだが、「赤裸々を描けるか描けないかが分かれ道」と思うからこそ、書いてみた。
    誰にどう評価されたいんだ、一体(笑)



    NOT:でも、実は日本でもIライン脱毛とか、可能美香がやっていたよーな、かなり際どい脱毛があるので、このネタは脱毛エステティシャンに話を変えてまだ「使える」と思う。てか、私が貰いたいアイデアだ(笑)

    NOT2:一度しか行ったことがないが、私はレバノンという国が大好き。なんせ生肉天国なのだ。レバ刺しはレバノンで食うに限る!

    NOT3:私は別に赤裸々を描けばなんでも好きというわけでもない。赤裸々を描いて世界から評価されても、私自身は大嫌いだった「無理エロ作品」も多々ある。今思いつくのがラス・フォン・トリアーの「奇跡の海」と「バベル」の日本編かな。
    「奇跡の海」は夫の病気を治すために、バスの中で痴漢行為を働いたいりする。無理やりすぎだろ。ばかみたいだ。
    バベルもひたすら気持ち悪いハダカだった。この女優の垂れた貧乳、間延びした胴体、猛々しい陰毛を晒してなにを表現したかっただろう?おそらく「孤独」というのが答えなのだろうが、年増女優が女子高生役を演じることのムリムリ感しか私には伝わってこなかった。
    オヤジの前でまでヌードになって「甘える」シーンも、本当に反吐がでる。必然性なき赤裸々は要らんのです!

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