トゥルキスタン夜話

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2006.05.31 Wednesday

眼鏡女教師とパイロット

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    Mから手紙が来た。
    ウズベキスタンから来る手紙は常に私を身構えさせる。
    「金の無心か?」
    という「ドキドキ感」が最後まで払拭できないからだ。
    もしくは、何らかの要求…「日本で働きたいからビザなんとかしろ」とか・・・。

    Mの手紙だけが、いつでも淡く哀しい。
    自分を理解してくれる話し相手が居ないこと、仕事が辛いこと、身内の近況(私には変ったことはないけど、○○さん覚えてる?あのひとがね…と言った調子)、などが几帳面な文字でつづられている。綺麗だがかなり読みづらい文字だ。「あなたはまだウズベキ語が読めるのかしら?いいわ、独り言だと思って書くわ。」などといつも書いてあり、私はこの手紙を読むためだけに他に全く用途もないウズベキ語(それもキリル文字)を忘れるわけにはいかなくなっている。で、今回は…

    病に倒れた、とある。

    私は実は会ったときから、Mは早晩死ぬだろうと感じてきた。
    結核の後遺症が消えず、変な咳をこんこんしながら仕事を詰め込み、肉を買う金もなく痩せ細って、よく眼も見えないこの人はとうてい長生きするとは考えられない。
    Mの兄弟のうち3人はすでにこの世になく、正直あの状況で今まで彼女が生きていたのすら奇跡的とすら言える。
    ウズベキスタンにおいて人の命は羽のように軽い。
    皆、簡単な病気でポロポロと死んでいく国なのだ。

    彼女は何のために生きたのか?
    なんといっても彼女は教育者で、長年の苦労の末、3回も大学院に入りなおして助教授にまでなったのだから、おそらく児童心理学、になにか「新しい貢献」をした、もしくはしたいと思っているはずだ。
    便所の灯りより暗い裸電球の下で、紙スレスレに顔を近づけながら、彼女がカリカリと書き綴って自費出版したコピー本よりも粗末な書物、それはロシア語なので私には読めない。(ウズベキスタンでは売れる本以外は自費出版するしかないのだ)
    そのことも悔しい。
    最悪、彼女が死んでもいいので、彼女が何を「なした」かは理解したいし、それを残したい。

    そんなMにも私の知る限り一度だけ縁談が持ち上がったことがあった。
    ウズベキの婚姻システムは「サヴチ」という「仲介婆さん(私のイメージ的には『金瓶梅』とかにでてくるよーなゴウツクなイメージなのだが。。。)」が年頃の娘のところへ、結婚したがっている男の情報を持ち込み、親同士で縁談をまとめるというものだ。
    それを聞いて私が「げ!昔の中国とか日本みたい。やだ〜。」と顔をしかめると、Mは「あら、ウズベキは良いほうよ、カザフスタンなんて夜這い婚(嫁さらい)があるのよ。」とけろっと言った。
    男が夜、娘の家に忍び込み、おんぶして連れ去ってしまうそうな。
    ま、それにもいろいろ機微があって、本人同士が示しあって予めカギを開けておいたりするそーで、ある意味、親同士が決めるより「恋愛結婚」に近いものがあるそうなのだが。
    で、Mはウズベキ人だからか、インテリだからか、フェミニストだからか知らないが、夜中に拉致されるなんていうのはやはり嫌で、さっさとウズベキに越してアパートを買ってしまった。
    しかも猛烈なロシアかぶれのMは、タシュケントで一番ロシア人の多い地域にわざわざアパートを買ったのだ。
    それは、以前はアル中のユダヤ人が住んでいた部屋で、どこか荒んだ、下町人情などとは縁のないアパートだ。
    サヴチが来るにはそもそもご近所づきあいの緊密な実家に住んでなければならないわけだから、Mは自ら縁談なんぞもちこまれない道を選んだのだである。

    そんなMにおそらく「最後の縁談」が舞い込んだのはもう5年も前のことになる。
    それはなんと子持ちのウズベキスタン航空の「パイロット」で、確か妻と別れて子供の世話に困るので女なら誰でもいいから来てほしい…というミモフタもない理由でのことだった。
    おりしも私がウズベキスタンから引っ越すぎりぎりの時で、「じゃー、パイロットと結婚したら、操縦席に乗せてもらって毎日私に会いに来てよ、先生。」などと、私もうかれて喜んだ。
    結局その話はすぐに流れてしまったのだが、地を這うヤセギスの女教師Mと、空を飛ぶ子持ちオヤジ、の組み合わせは妙に印象的で、気に入っている。
    私は孤独を寂しがるMに対して、いまだに「そんなことゆーんだったら、あのときパイロットの嫁になってればよかったのに!」とからかう。
    Mにとってはとっくの昔に「過去の人」なわけで、「忘れたわよ、そんな話!」と怒る。

    私は今でも思い浮かべることがある。
    髭を生やした鷹揚なおっさんがMの細い腰を抱えてパラグライダー風に空を飛ぶようなイメージ、を。
    それはちょっと、映画「タイタニック」のワンシーンのようで、茶色の眼鏡の奥でMが強い逆風に涙を撒き散らす、その彗星のような光芒までが想像できる。

    ほんとうにほんとうに本当に末期的な状況なのであれば、私は彼女をひきとって一緒に暮らしたいと考えている。
    果たして、私は彼女を抱えて飛ぶことができるのだろうか???
    てか、普通「家族が増える」といえば「アレ」と「アレ」しかないこの国で、私は何をしようとしてるのか…。

    2006.05.04 Thursday

    風薫るソリの午後、オトメな先生と。

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      「トルコ語について」と言っておきながら妙に老嬢についてばかり書いているこのブログだが(KKも広義の老嬢に含めると…)最近また新たに老嬢ムーヴィーを見てしまったので、書いておこうと思う。「イヴの密かな憂鬱」という10年くらい前の映画で、全国100人の老嬢マニアの方以外にはつまらない映画だろうが、私には結構面白かった。主演はティルダ・スウィントンという「ホッソリ顔に意外とフルボディ」な女優である。(外見は英国製島田楊子という感じだが、根底に超俗的な反社会性、すなわち「実はパンク!」なものを感じさせるところが、ひたすら世俗的な「借金苦」を感じさせる島田さんとは違う。)老嬢ムーヴィーに何故かありがちな性倒錯、被害妄想、自傷癖、家庭内確執といった要素がたっぷり詰め込まれ、強力に眠気を誘いつつも飽きさせない(どっちよ?)映画だった。

      思えば、私にとって初めての「老嬢ムーヴィー」とは「クライム・オヴ・ザ・パッション」という作品である。キャサリン・ターナーが主演でアンソニー・パーキンスがサイコな役で出てたりする。当時のわたくしは花も恥らう「女学生らいふ」を送っており、老嬢とは縁もゆかりない乙女であったにもかかわらず、あの映画はすでに「!!!」と魂にキタ。年齢的にも老嬢にはまだ程遠かったのだが、性格的にも私は昔から享楽的で怠け者で甘え上手で他力本願で、どこからみても老嬢予備軍の影も形もないタイプ、だと思う。第一印象的には「すぐに結婚して主婦になりそうな感じ」だったと言ってもいいかもしれない(性格的には孤独死して3年くらい発見されなさそうな奴だが。)。それがなぜ、少女時代からこんなにも老嬢に興味があるのだか、よくわからないのだが、すでにこのとき「萌芽はあった」、のだろう。
       この映画は「東電OL殺人事件」のずっと前につくられたにも関わらず、あの事件を予告するような内容で(主人公は昼はキャリアウーマン・夜はチャイナ・ブルーという名の娼婦なのだ)、「デキル女の孤独」に圧倒されたものである。当時見た映画では「ナイン・ハーフ」という「ちょいエロ」映画もあったのだが、私にとってはそれもまた「老嬢ムーヴィー」のバリエーションであった。以降私は、数々の「とるに足らん」映画を「老嬢」というキーワードだけで読み解いては、興奮してきたのである。。。

       太古の話はさておき、やはり近年の白眉はミヒャエル・ハネケ監督の「ピアニスト」に尽きる(同じ変人監督作品でも「戦場のピアニスト」ではないので、お間違いなく。)女性としては本来ブノワ・マジメル君目当てに見る映画なのかもしれないが、勿論私にとってはそんな人はどうでもいい。このときの主演・イザベル・ユペールの鬼気迫る演技の凄まじさ!まさしく老嬢ムーヴィー史上に残る傑作である。
       また、マニアな私としてはイザベル・ユペールの老嬢モノとしては「マリーナ」(モニカ・ベルッチの「マレーナ」ではない!)という映画もすごかった、と特筆しておきたい。ドイツの鬼才ヴェルナー・シュレーター監督作品(ティルダ・スウィントンのオルランドより前に作られた『奇形オルランド』に出てた女優・マグダレーナ・モンテツマを最後に使った監督だ)で、「ピアニスト」に勝るとも劣らず老嬢の自己食尽的狂気を体現しており、「うー、この女優、あと10年たったらさらに熟成した濃い老嬢になるじゃろう」と思って見ていたら、案の定10年後に「ピアニスト」という傑作が生まれ、私は嬉しかった。

      ところで老嬢ムーヴィーには顕著な特徴があって、それは必ず「性」がキーワードになっていることである。
      しかもそれは必ず、孤独と過労と女であることの闇の重圧に押しひしがれた「歪んだ性」なのだ。

      実は、これは私的にはあまりイタダケル話ではない。
      老嬢がそんな女ばかりだと思ったら大間違いで、むしろ、現実の彼女たちはどちらかといえば性的には淡白だからだ。
      むしろあまりに淡白すぎて歪むもクソもないのである。
      (と、言うより、以前書いたとおり私の愛する狭義の『老嬢』というのは、本来は男性経験が皆無な人のことをいうのである。だから私が付き合う人はピアニストのエリカとか、チャイナブルーのような、密かに乱倫な人々とは人種が違う。すると、これらは老嬢ムーヴィーではなく、キャリア系独身女性ムーヴィーとして区別したほうがいいのかもしれないが、面倒なので今回はごちゃまぜに語ってまおう。)
      「いや、淡白そうな仮面の下に膨れ上がった欲望が隠されてるんだよ!」というのは当事者でない者(男性側)の願望を反映した覗き見趣味でしかないと、いろいろお付き合いした経験上私は感じるわけで、例外的な抑圧された性欲を描いてばかりの老嬢ムーヴィーにはちょいと食傷してもいる。

      だいたいからして、私が愛する老嬢Mは「食うや食わず」の状態なのだ。さらには彼女のアパートには弟妹たちがひしめいていて、川の字どころか井の字に寝ていたりもする。貧困というのは精神の倒錯を容易に許さない。たとえば、もしもあなたが神経症であるならば、極限まで貧しい環境に自分を追い込めば殆ど治るだろう。砂漠で飢餓に苦しみながらSMをする余裕は、人間にはない。(私がウズベキスタンを愛する理由のひとつも、その徹底的な「貧困」を生で目のあたりにしていたら、自分の心も単純化され、ついには生きるのが極めてラクーになった、という恩恵を授かったせいだと思われる。)また、ウズベキ社会に住むMにとって、結婚せずして男性と性的に関わるというのは不可能な話なわけで(いわゆる娘時代から不可能に近かったのだが、年をとり、それなりの地位もある今ではもう完全に不可能だ)、老嬢ムーヴィーの猟奇世界は彼女の日常とは永遠にかけ離れたままだろう。

       ま、Mが全く性的に無知かというとそんなことはなく、私たちは丁度今頃のような晩春の風薫る日には「ねずみ御殿」の中庭の「ソリ(ウズベキ風寝台)」にねっころがって、トルコの女性誌などを読み漁っていたものだ。トルコの女性誌(マリークレールとかアミカとかコスモポリタンなどのトルコ版)というのはやたらと性的にオープンで日本の女性誌と同じくらいか、それ以上にえげつない。三十路半ばにして処女(…処女と書いて『オトメ』と読むべし!)な先生と読むのはどーかと思われるような、過激な記事が多いのだが、Mは結構あっけらかんと興味を示した。それは老嬢ムーヴィーの描写などとは違う、極めて素朴でのびやかな好奇心で、つまり彼女は性を知らない代わりにその淫靡さもまったく理解しないのだった。アバズレ小娘な私の得意げな講釈なんかを真剣に聞いて「まあ!面白い。」と真面目に感心しているMは本当に純真そのもので可愛らしかった。

      すっかり「耳年増」になったMの可愛いエピソードを最後にひとつ。
      なにかの拍子に「おんどりは鳴いてうるさいから飼う必要なんてないよ。めんどりはオスが居なくても卵を産むんだから。」と私が言ったら、Mはくすくす笑って「あなたって処女じゃないのになあんて純真なのかしら。万物はメスとオスとで『性交』をするのよ。鳥はきっと『後背位』をするわ。あなたの知らないところで必ずしてるのよ。そして赤ちゃんが生まれるの!」と訳知り顔で「教えて」くれたのだった。

      ああ、キャサリン・ヘップバーンの「旅情」のごとく、のどかで健康的な「老嬢ムーヴィー」を誰かまた作ってくれないものか。
      オススメ映画をご存知の方、情報お待ちしています。。。(って、完全に話がトルコ語からズレてしまった。)

      2006.03.30 Thursday

      エリカトイ

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        ウズベキ語では「甘えんぼ」のことを、「エリカトイ」と言う。
        トルコの歌手タルカンの有名な歌「SIMARIK(甘ったれ)」はウズベキ語に訳すなら勿論「エリカトイ」なのである。
        Mは私のことを、エリカトイと言う。

        日本へ帰る前々日、朝起きたら、Mはなんだか機嫌が悪かった。
        頭痛がひどいのだという。
        この家では、頭を手術したばかりの心理学者の妹を始め誰もが不幸なわけで、そんなことにはもはや構わず私はニコニコと朝食のいくら丼の用意でもしてたのだ。

        その後、たらたらとチャイの用意をするMを台所に残して、バッテリヤに張り付き、ふと、窓の外の空き地における枯葉と霜の黄金の輪舞(嘘つけ)を見ていたら、突然「寝違えた。」
        起きながらにして唐突に寝違える、という経験は初めてで、私は突然、ネジクレタ体勢で床にばったり倒れてしまった。
        Mは不機嫌なので、当然「すぐ治るわよ」などと言って冷淡に見ていたが、私が日に焼かれた蚯蚓のごとく煩悶しながら、いつまでもネジクレているので、心配しはじめた。

        (心の中で、私は思う。もしMが頭痛い、などと言わなければ、こんなことにはならなかったのに。
        私には毒を持って毒を制する、というか1のトラブルを100のトラブルを起こして解決するようなところが「先天的」にあり、誰かが病気になると自分もそれ以上にヒドイ病気にならなければ気がすまないのである。しかもこーゆーことをワザトやっているわけではないから、タチが悪い。)

        根が面倒見がよいMは、慌ててマッサージをしたりし始めるが、私の首は後方45度にがくっと曲がったまま、なかなか戻らない、というか、戻そうとすると激痛が走る。
        しかし、今日はMの大学に同行する約束をした日なので、私は出かけなければならない。
        何とか、首を建て直し、頭の上にボーリング球でも載せているような状態で一緒に家を出た。
        少しでも骨がずれると痛いので、まっすぐ前しか見られない。

        Mの勤め先はタシュケント国立大学という所で、ここは、中央アジアで最も古い大学らしい。
        イスタンブールのコチ大学の助教授ティムール・コジャオウル(このひとほど善良な人間に私は会ったことがない!すごすぎる。そしてその息子はなぜか悪魔だ。。。)の父親がウズベキスタン臨時政権の大統領だったころ、「トゥルクメニスタンなんとか大学」として建てられたそうだ。
        今では文系と理系に分裂したが、それでも14の学部を擁するこの巨大大学は、最高学府として君臨し続けている。

        7年くらい前に一度だけ会った、トルコ語学者と再会する。
        トルコ語−ウズベキ語用例辞典を出版した人だ。
        あとから、この調子の良いジジイがMのトルコでの研修の機会を握りつぶし(ついでに私に会えると思って喜んでたらしい)、自分が代わりに参加したことを聞いた。
        Mは「しょうがないのよ。トルコ人と仕事してるトルコ人みたいな人なんだから。」とまた一発。(「トルコ人は狐だ」、というのはMの格言と化している。狐のごとく「アヨール」で、「ピッシック」なのだと。また別の機会にも書くが、M曰く、トルコ人はホラズム人の特徴を全て備えていて、さらにそれが「ひどくなった奴ら」である。で、ホラズム人とは…要はチャラチャラしてて利に敏く目立ちたがり屋で攻撃的で金に汚い種族、であるらしい。どこの国にも「県民性」というの名の偏見は存在する)

        助教授Mの部屋はウズベキ語−トルコ語課というところだった。
        なんと目立つところに、カリモフと共にアタチュルクの写真が並列で並べてあった。(なんかいや〜な感じ。)
        鬱状態で引きこもりを続けるMを同僚の教師たちは皆心配していた。
        「いったいどうしたの?有給はとっくにおわったはずよ!働きなさい!」と学科長の女性は叱咤する。
        その言葉は、喪中のスカーフ(身内に死者が出るとウズベキ女はスカーフをかぶる)をかぶりっぱなしでうつむくMをすり抜けて、私にも刺さる。
        ああ、勤労せねば。。。
        すっかり登校拒否になってしまったMは煮え切らない。
        私はこのようなMはあまり好きではない。
        働け!老嬢よ。お前には勤労以外なにがあるのだ?
        と内心、思ってしまう。
        (いや、自分こそ働かねば。)

        学校からKKに電話したが通じないので、Mと一緒にチョルス・バザールに行く。
        私はもはや首が痛くて平均台の上をそろそろと歩くように、Mに手をとらせ、すり足で歩を進めている。
        そのくせ「ナーリンが食べたい!ナーリンが食べたい!」とワガママを言うのだ。
        ナーリンとは刀削麺のようなもので、その麺が細切れの馬肉の燻製(カズ)と混じりあっている。
        冷え切ったナーリンを熱い羊骨スープで何度か暖めてから、どんぶりに改めてたっぷりスープをはって出してくれたりすると・・・もう最高にうまい!
        私が世界で最も愛する料理は・・・実はこれ!と言ってもいいくらいだ。
        それから、レバーの「カボーブ」を食べる。これもぶりぶりして血が滲み、はじける美味さ。
        (これに比べたら、トルコの「アルナヴト・ジエリ」なんて弛緩した死肉を犯すがごとく不味い。)
        ウズベキスタン時代、こればかりを2年半食べ続けたものだが、まだまだ永遠に飽きないことが発覚・・・深い。

        ナーリンを食べて、また殆ど盲目のようにMにつかまりそろそろ歩いていたら、あまりにそれがおおげさなので、Mがついに地下鉄の駅で、私の鼻をきゅうっとつまみ「エリカトイ!」と言ったのだ。帰って寝るときにも、フトンとシーツを敷いて(いつもはさすがに自分でベッドメイキングするのだが、首が痛いといってMにやらせたのだ)私を寝かしつけ、私が「ぽっちり」顔を出して赤子のようにぬくぬくすると、また冷たい痩せた指で鼻をつまんで「このエリカトイ!」と言った。

        2006.03.15 Wednesday

        マスタヴァの作り方

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          前回のお話に登場した、「マスタヴァмастава」の作り方は以下の通り。

          Кичик-кичик булакларга булинган куй (ёки мол) гуштини киздирилган ёгда ковуриб олиш керак.
          Кейин уни кайнаб турган бульонга солинади.
          Унинг купиги олиб ташланиб, паст оловда 15-20 минут кайнатилади.
          Кейин унга ювилган гуруч солинади.
          Бироз кайнагач, козонга туз билан кичкина килиб кубик шаклида тугралган сабзи, хамда картошка, шолгом солиб кайнатиш давом эттирилади.
          Гушт ковурилган ёгда паррак килиб тугралган пиёз хамда помидорни ковуриб, хаммаси биргаликда кайнаб турган козонга солинади.
          Устига кук пиёз ва кукатлар солиб, косаларга сузилади.
          Бир кошик катик кушиб ичсангиз, янаям мазали булади.
          Ёкимли иштаха!
          4-5 порция маставага 300г гушт, 100г ёг,250г гуруч, 3тадан сабзи ва картошка, 1та шолгом, 2та пиёз, 3та помидор кетади


          【訳】
          小さく切った羊肉(もしくは牛肉)を、熱した油で炒める。
          それを温めたブイヨンスープの中に入れる。
          灰汁を取りつつ、弱火で15分から20分煮る。
          さらに洗った米を入れる。
          そのまま少々煮たあと、塩と小さくサイノメ切りにした人参、じゃが芋、蕪を入れさらに煮つづける。
          肉を炒めた油で、千切りにした玉葱とトマトを炒め、それも一緒に鍋に入れる。
          最後に葱やその他の香草を入れ、どんぶりに取り分ける。
          お好みでヨーグルトをひと匙入れれ、召し上がれ!
          4-5人分のマスタヴァを作るには三百グラムの肉、百gの油、二百五十gの米、人参とじゃが芋を三個ずつ、蕪が一個、二個の玉葱、三個のトマトが必要。

          …しかし、Mの家で食べたマスタヴァには具らしきものは殆どなかった、気がするのだった。

          ちなみに、キリル文字を無理矢理カタカナで書くとこんな感じ。
          ひらがなはウズベキ語の特殊発音に対応している。音読するとトルコ語との違いを実感できる、と思う。

          キチック キチック ボらックらルガ ボるンガン こイ(ヨキ モる) ゴシュトヌ くズドィルるガン ヨぐダ こーヴルッブ ありシ ケレッキ。
          ケイン ウヌ かイナッブ トゥルガン ブるヨンガ サるナドィ。
          ウニン コプギ あるッブ タシらッヌブ, パスト あらヴダ オンベシ イーギルマ ミヌット かイナトィらドィ。ケイン ウンガ ユヴるガン グルッチ サるナドィ。
          ビローズ かイナガチ、 かザーンガ トゥズ ビラン キチキナ くルッブ クービック シャクりダ トぐラるガン サブズ、 ハムダ カルトーシカ 、ショるごム サるッブ かイナトィシ ダヴォーム エットィルらドィ。
          ゴシュト かヴルるガン ヤぐダ パッラック くるッブ トぐラるガン ピヨーズ ハムダ パミドルヌ こーヴルッブ、ハンマーッス ビルガりクダ かイナッブ トゥルガン かザーンガ サるナドィ。
          ウストィガ コクピヨーズ ヴァ コカットらル サるッブ、コサらルガ スズらドィ。
          ビル かシュッく かットく こシュッブ イチサンギズ、 ヤナヤム マザり ボらドィ 。ヨクムり イシュタハ!

          トルト ベシ ポルツィヤ マスタヴァガ ウチ ユズ グラム ゴシュト、ユズ グラム ヤぐ、 イッキ ユズ エッリック グラム グルッチ ウチタダン サブズ ヴァ カルトーシカ、ビッタ ショーるがム、 イッキタ ピヨーズ、 ウチタ パミドール ケタドィ。


          【おまけ】
          私の作っていたビーフ・コンソメの作り方。

          牛の骨(大2本)とたまねぎ大2個(4つ切り)を235度に熱したオーブンにいれ、1〜2回返しながら45分間から焼きする。
          煮崩れないようにタコ糸で縛った牛肉の首肉1kg、セロリ、にんじん、ローリエ、にんにく、クローブ、塩、粒胡椒、焼いた骨とたまねぎを鍋に入れ、水を3リットル入れる。浮いてきたアクは丁寧に取り除き2時間煮る。
          最低6時間冷ます。表面の脂を取り除く。スープを鍋にもどし、卵白を2個分入れ、よくかき混ぜながら煮る。
          煮立ったら、弱火に死、蓋をしないで、スープが2リットルになるまで1時間ほど煮る。これをガーゼで漉す。
          食卓に出す直前に温め、辛口のシェリー酒を適宜入れる。

          …このスープを使ってポルチーニ茸を使ったリゾットを作ると絶品。ポルチーニ茸はウズベキスタンの我が「ねずみ御殿」の側のコンビニで売っていた。牛乳とか砂糖などの日用品が突然陳列棚から消えたかと思うと(かつてのロシアでもよくあった現象)、日本以上に品揃えが良かったりするのがウズベキの「マガジン(雑貨屋)」である。

          18:18 | 愛すべき老嬢 | - | - | - | - |
          2006.03.13 Monday

          老嬢の過酷な生活

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            この前、私はMとの思い出話に「シルクロードで…」という題名をつけたが、これは別に詩的な効果を狙ったわけではない。
            シルクロードというのは私にとってはすでに「明治通り」とか「関越自動車道」というくらいな意味なのだ。
            日本人には皆、シルクロードというと喜太郎の音楽がひょろろ〜とかかっていて、ラクダが隊列を作っているようなイメージがあるから、あの、並木道をさして「これがシルクロードです。」と紹介されると、イメージが崩れるかもしれない。
            シルクロードはタシュケントに実在するしごく月並みな大通りの名だ。
            私達の会った大学の前を走っていた大きな通り、単にそれが「シルクロードbuyuk ipak yoli」なのである。
            この街の生活者は、「じゃ、シルクロード通って右に曲がって…」とか「シルクロードからだと遠回りだからあっちの道から…」などとという風に使うのだ。

            閑話休題。Mについての話の続きだが、正直何を書いていいのか膨大すぎて悩む。
            支離滅裂になるかもしれないが、「夜話」にふさわしく、思いついたことを書いていこう。

            まず、私が最も驚いたのは、Mの赤貧ぶりだった。
            日本では「貧乏人」というのは「おしん」、というドラマの中にしか存在しないが、ウズベキスタンには生粋の貧民がまだまだ大勢生きているのである。

            Mというのはもともとはカザフスタンのサイラムという古都の生まれだ。
            厳密に言えばウズベキ系のカザフ人である。
            Mの家はサイラムではかなりの名家で、今ではりんごが有名なこの町に最初にりんごを植えたのがMの父親だったらしい。
            そのほかにも有名な児童心理学者を輩出していたり、親戚は超がつく大金持ちだったりすることから、Mの実家がそもそも中流以上であることは十分に知れる。

            しかし!Mは壮絶な貧乏だった。
            彼女は私と出会った当時、大学と高校(ギムナジウム)の授業をかけもちして朝の8時から夜の8時まで授業をつめていたのだが、だいたい12ドルくらいしか給料を貰っていなかったと思う。それでもそれは当時のタシュケントでは平均的な給料なわけで、さらに低い給料しかもらえないMの弟妹たちは、その12ドルの給料に(こーいってはなんだが)「たかって」いた。(ほかにも月収5ドルくらいの人はザラに居たし、年寄り達は、月1・75ドルの年金で生活しなければならない状態だった。田舎のほうに行くと、月収が1ドル未満になってしまったりする。すべては闇レート換算。当時のウズベキは実質、世界一貧しい国だった)

            Mの家を始めて訪問したときの衝撃は忘れられない。小さいちゃぶ台を囲んで、Mとその妹(同じく老嬢。こちらは心理学者)と弟二人(肉体系労働者)がマスタヴァというお粥を食べているのだが、そのあまりの「しゃぶしゃぶ」ぶりに私は唖然としてしまった。戦時中でもないのに、極限まで米を節約しているのである。Mは「この料理は、本当は肉が入るの」と、朗らかに説明してくれたが、肉は当時1キロ1ドルもしていたのである(私はその肉を大量に買って、トゥール・ダルジャンのシェフしかやらないようなリッチなビーフコンソメをつくり、肉そのものは捨てていたりした)。そんなものがMに買えるわけがない。

            裸電球のともる部屋は暗く、飯が満足でないせいか、兄弟たちはものすごくギスギスしている。「貧しいけれど楽しい我が家♪」などというのは幻想で、ここまで貧しいと、人間、気持ちが荒まないわけがないのだ。
            妹におそるおそる「タシュケント、好き?」と聞いてみたら「嫌い。そもそも、生きているのが嫌」と、思い切りネガティブな返事をされ(トルコ人とウズベキ人の差はこーゆーところにある。いくら貧乏でもこんなことを言うトルコ人はみたことない)、気が滅入ったし、弟たちは「この子、ウズベキ語なんか分かるわけないじゃん」と私を馬鹿にするので、頭にもきた。

            だいたい、何故私がこのときMの家に来たかというと、自分の家族が海外出張で出かけてしまい、部屋数が14あるような巨大な「お屋敷」にひとり残され留守番するのが嫌だったからなのだ。家庭教師に来ていたMが「寂しくない?私の家にいらっしゃいよ」と言うので、のこのこついていったのだが、まさかこのような光景を眼にするとは、夢にも思わなかった。自分で言うのもなんだが、何不自由のないワガママ娘が突然貧民窟に招待されたような状態だったのである。

            ウズベキはかなり男尊女卑な国だから、男兄弟達は、夕飯をご馳走になりに来たくせに座ったままびくとも動かず、Mに命令して茶を注がせたり、給仕させたり、果ては文句をつけたりする。おそらくは八つ当たりだ。彼らの仕事も大変かもしれないが、Mは12時間立ちっぱなしで授業をし、その後私の家庭教師をやって、その後は夜中の2時ごろまで授業の準備をする、というような生活なのである。Mの電話番号を聞いたとき、「夜は何時まで電話していいですか?」と聞いたら、「そうね。夜中の2-3時までは起きているわ」と言われたのもびっくりした。中央アジアのこんなのどかな国で、この「老嬢」は過労死寸前のスケジュールで生活していたのだ。

            私はすっかり気が塞ぎこみ、いたたまれなくなって、案内もされていないのに隣の寝室のベッドへ、隠れてしまった。
            M自身が約30万円の大ローンを組んで買ったこの粗末なアパートは(老嬢はどこでも自分でマンションを買う!)部屋が二つしかなく、食卓の部屋から6畳間くらいの寝室まで続いているのである。
            粗末な堅いベッドで膝を抱えていると、Mがやってきた。

            Mは、自分の子供の頃からの「歴代眼鏡コレクション」を見せてくれた。
            と、いっても3個くらいしかないのだが。
            -6というド近眼のMの眼鏡はどれも「牛乳瓶の底」のようで、おかしい。
            ちなみに、当時のMはその頃流行っていたアニメに出てくる「碇指令」とそっくりな色付眼鏡をかけていたのだが、その前のロシア風の眼鏡なんて、冗談のように大きくて重たい。
            眼鏡をかけて「くらくらするう〜」などと言って、私が機嫌を直したのを見計らって、Mは押入れから布団を出してき、私を寝かしつけてくれた。
            (今思えば、Mが所有していて、他人に披露できるようなものは「眼鏡」くらいしかないのだ。本当に生活に一切の無駄も装飾もないのだから!キーホルダーひとつ「ない」のである。)

            そして、その夜気づいたが、こんな悲惨な暮らしのなかで、Mだけが、貧しさに歪んでいなかった。
            粉工場の排気口まで行って、地面に落ちた小麦粉を拾い集めるような生活でも、Mだけはまるで火星人のようにひょうひょうとしていた。Mは頑固に自分の使命と「学問」を見つめていて、完全に視野狭窄で、ほかのことには一切こだわっていない女なのだった。だからこんなひどい状態の「家族」と「生活状況」を甘やかされた外国人に見られても全く恥じることがないのだ。思えば彼女の兄弟たちは、服が汚れるのを気にして恐る恐る食卓に座った私を、水のようなマスタヴァをスプーンで掬って「コレだけ?」と怪訝な顔をした私を、完全に見透かしていた。だから普段より一層イライラして、姉に八つ当たりしていたのかもしれないのだった。「わざわざいい服を着たお金持ちに俺達のこんな生活見せ付けなくたっていいだろう」と言いたかったのかもしれない。

            次の授業で「わかったわ。あなたは火星から来たのね。Siz marstan kelgansiz!」と言ってみると、「どうして?」とMは笑った。

            2006.03.03 Friday

            シルクロードで「老嬢」と出会う。

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              突然だけど、私は「老嬢」という人種が結構好きだ。
              日本ではとうの昔にこの言葉ごと絶滅してしまったか、「負け犬」という言葉にとってかわれれてしまった感があるけど、平たく言えば「老嬢」とは、未婚で老いた女性の古風な言い方である。(オールド・ミス、とも言ったらしいが、ここまで来るとちょっと侮蔑的?)
              私が最後に日本で「老嬢」らしき人を見たのは、かれこれ中学生の時で、まだそのときは私自身が「老嬢」観察にたけていなかったため、親愛の情を抱くどころではなかったのを覚えている。

              「老嬢」とはなにか?
              単に婚期を逃した女性のことなのか、というと、少なくとも私にとって、それは違う。
              私にとって、「老嬢」とは、恐ろしく高い知性に恵まれていなくてはならないし、そのくせ不器用で俗世を泳ぐのが異常なまでに下手でなくてはならないし、やせぎすで眼鏡をかけていなくてはならないし、なにより男性経験が皆無でなくてはならない(二人きりで話すのも、手をつなぐのも不可)。
              イギリスの近代小説とかカポーティの短編に出てきそうな、眼鏡をかけて難しい本を読みながら歩いては壁にぶつかり、真っ赤になって壁に向って謝りながら落ちた眼鏡をふんずけて壊して居るドジな40代未婚女性、がその端的なイメージである。

              そして私にはウズベキスタンという国に、大好きな「老嬢」のお友達がいる。
              それがM。
              Mはまた、私が今まで生きてきて唯一なついた年上の女であり、私にとって唯一の「先生」である。

              Mのほんとうの名前はなんともアラベスクで語尾だけがロシア調でとても美しいのだが、ここではただ、Mとしておく。
              Mは私のウズベク語の先生だ。
              私たちが出会ったのは20世紀も終わりに近づいたある年の初秋であった。
              私はひょんなことからこの国に暮らすことになり、某大学の外国人向けのウズベキ語の授業で教師のMと会ったのだった。

              ウズベキスタンは寒暖の差が激しく、四季がくっきりしている国であるが、秋は何処までも青く空が澄み、木の葉が金色に輝き、絵画のように印象的な季節である。トルコ人から散々「中央アジアなんてつまらない。何もない。砂漠以下だ。」というような風評を聞かされていた私は予期せぬ街の美観に驚き、この国に着いてすぐ、「ここが気に入った」と思ったものだ。
              ちなみにウズベキ語では紅葉のことを「黄葉」と言う。(のちにMにモミジの写真を見せると、「どうしてこの木、ピンク色に塗られちゃったの?」と言った。)

              しかし、やはりウズベキに来てすぐ衝撃を受けたのは、当時日常会話レベルのトルコ語はマスターしていたし、トルコでわざわざウズベク人の家庭教師をつけて、ちょっとした作文くらいは書ける程度にウズベキ語も事前に勉強していたにもかかわらず、ウズベク人が何を話しているのか全く分からないことであった。日本の中でも、東北に行ったり、沖縄に行ったりすれば、土地の人が何を話しているのか分からなくなってしまうものだが、まさにそのような状態だ。私は悔しくなり、学校の授業だけでは飽きたらず、Mと交渉し家庭教師として自宅に呼び、共に勉強を始めた。

              ウズベキ語というのは、トルコ語と比べて無粋だ、とか下品だ、と言われることが多いが(トルコ人は皆そういうし、ウズベキ人自身もそう言ったりする。)Mのウズベキ語はとても可愛らしく、上品だ。ウズベキ語が「強い」発音に聞こえるのは、喉の奥から出すKとかGとかの音のせいだが(そういう音はアラビア語やクルド語にはあっても、トルコ語にはない)Mの絹糸のようなふにゃふにゃしたたよりない声で発生されると、その、痰を吐くような音ですら、大事な木箱をぱふっと閉める時の音のような、暖かないい音がするのである。この美しい発音のおかげで、私はウズベキ語を学ぶのがずいぶんと楽しくなったものだ。

              …Mと私の7年以上に渡る付き合いを一日で書ききることはできないので、今日はとりあえずこのような序章で終わり。
              とにかく私は空気の澄みきった秋のタシュケントの静かな教室で、愛すべき「老嬢」Mに出会ったのだった。

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